平安時代の事を調べていると、なるほどと思うこともよくあります。
平安時代に太政大臣というのがあります。
これは、官職の最高位です。位階で言うと正一位となることが多いですが、この太政大臣自体が空位の場合もよくありました。
その場合は左大臣が担当します。
驚きなのが太政大臣になったときの収入です。
正一位になると、土地80町、位封を300戸、部下を100人、綿・布・鉄などの季禄。
太政大臣としては、土地40町,位封3000戸,部下300人です。
租税は3300戸の半分がもらえたそうです。
1戸の税金がざっと年間12万円くらいでしょうか。
3300戸だから、396,000,000円でその半分だから1億9800万円が入りました。
部下は400人で年収400万として年間16億円が支給されます。
部下に対しては実際はどれだけ払っているかはわかりませんが、そのまま払わなかっただろうから1割か2割は自分の収入になったでしょうね。2割でも3億円。
他にも布などの支給が沢山あったのでそれを持っていても仕方ないから売るでしょう。
だから恐らく年収は7,8億円くらいだったでしょうね。
正一位になった人(抜粋)
関白や太政大臣、あるいは征夷大将軍になった人が対象ですが、死んだ後に叙位されることが多いです。
岩倉具視
織田信長
楠木正成
三条実美
菅原道真
徳川歴代将軍全員
新田義貞
源融(みなもとのとおる:源氏物語のモデルで嵯峨天皇の12男)
藤原道兼(藤原道長の兄、道長は従一位太政大臣)
などですね。織田信長なんか意外だなと思いました。
太政大臣は官職では最高位だけど、その上は帝(天皇)しかいないのかと思ったら大間違いですね。
ご存知摂政、関白というやつ。
摂政は天皇が若かったり女帝だったりするときに天皇の代わりをします。
関白は(あずかりもうす)と言う意味ですが、成人後の天皇が病気などで政務などをまともに出来ないと判断されたときに、天皇の代わりをする役ですね。
関白は、たとえば天皇宛に来た手紙を全て先に読む権利などがあって、わざと天皇に手紙を渡さなかったこともしょっちゅうあったらしいですね。
いくら位階が高くても独裁では決められなかったと言われています。大体閣議が行われてそこで決まりますが、基本は午前中なのですが、なぜか夜中に行われることが多かったそうです。
貴族はどうも夜を異状に怖がったみたいですね。貴族の屋敷はとても大きかったので冬場などはとても寒かったと思います。寂しい屋敷では盗賊や妖怪が怖いので夜中に集まって固まっていたとも聞きます。
殿上人(てんじょうびと)という言葉がありますね。
これは、天皇が政務を行う清涼殿に上がることの出来る人だから、要するに天皇と話が出来る人という意味でいいのではないでしょうか。
人数は20人と決められていますが、天皇から特別に勅許を受けた人(まあ、会っても構わないと許された人)が80人ほどいたそうです。
位階で言うと4位以上の人から選ばれたそうです。
貴族はどうでしょう。
貴族と呼ばれる人は、位階で言うと5位(正五位上、正五位下、従五位上、従五位下)以上の人のことを貴族と呼ばれたそうです。
清少納言や紫式部は貴族だったのでしょうか?
二人は位階はありませんでしたので貴族ではありませんでした。
位階で一位になっておくと、生まれた子供は自動的に5位以上の位階がもらえたみていです。
会社で言えば、社長の息子が何もわからないのにいきなり課長や部長になるようなものだったのでしょうか。
そんな貴族だったので、実際はトラブルが絶えませんでした。
平安時代は誰もが剣を持っていたわけではないし、第一血をとても怖がったそうです。だから喧嘩が起きても斬った張ったの物語ではなかったのですが、貴族は貴族で独特の喧嘩が繰り広げられたみたいです。
貴族同士の喧嘩や争い事ってどんな感じだったのでしょうか?
それは次回書きますので待っていてください。(^^)