世間はゴールデンウィーク真っ最中だ。

今日は僕は東京芸大で少しだけ弟子のレッスン(ソロと室内楽)と家でも少し教えた以外はゆったりした日で、ゆっくり自分の練習をしたりして過ごした。分刻みで朝から晩まで予定がある訳でもなく、、天気も素晴らしく一年でももっとも良い日だった。

東京の家で一人だし夜ゆっくりとブログでも書くことにした。

 

少し気になるニュースを耳にした。

TOKIOの山口達也が女子高生に無理矢理キスを迫り警視庁に書類送検(起訴猶予処分)されたことを受けTOKIOの山口を除く四人が記者会見し今日ひたすら謝っていた。ほかの四人にとってもグループなので自分の人生にかかわる大きなことだろうし、長く一緒に芸能界を渡ってきたメンバーのこの様な事件はショックだっただろう。

アルコール依存だった可能性もあるみたいで、一か月お酒で体を壊し入院し、退院した日にたくさんお酒を飲み酩酊状態での事件だったようだ。

まったくもって彼は良くないことをしたと思うし、特に未成年に対していけないことをしたと思う。

 

家にテレビがない僕の耳にまでも届く大きな事件だ、マスコミ各社大きく取り上げている。

 

 

でもこの事件を僕なりに芸術家としての目でみてみると何とも言えない大きな違和感や違った側面を感じざるを得ない。

 

そもそもそんな国民に向けて謝るような話なのか、そして彼だけが本当に悪かったのか、

それとも夜中に酔っ払いに呼び出されて家に行く女子高生がよくなかったのか、

もしかしたらそれだけでもないんではないか、、

 

 

もともとテレビってのは虚像の世界に他ならない。

テレビにはもちろんマスメディアとして素晴らしい部分があるが、人間や物事の表面的な部分を作り上げて世の中の注目や人気を集め、それで商売が成り立っている部分もある。

アイドルというのはその典型な気がする。

その表の部分をよく見せ作り上げ、見かけがカッコイイとか、やさしいとか、たくましいとか、可愛いとか、、そういう部分を映し出すのはテレビは得意だ。

しかし人間というのはもちろん表も裏もあるものである。

 

タレントやアイドルの中には、世の中の自分の価値観を持たないミーハーな人たちに踊らされ、その人達が望むものが自分の価値だと信じ込み、それを演じることに一生懸命になってしまう人がいる気がする。

 

つまりその世界に生きていると自分の表の部分だけ演じることに一生懸命になり、裏の部分は自分ではないし、見せてはいけないと抑圧してしまうという思考回路になる。

 

よく世の中で報じられることの中に聖職者である学校の教師が痴漢をしたとか、坊さんが、坊主めくりならぬスカートの中を覗いたとかいうのがある。

 

こうしたものの大きな原因は自分の裏の部分の抑圧だ。聖職者なんだからちゃんと生きなければという自分のペルソナ(ユングの

言う外的側面、仮面)の裏に隠された、欲求や欲望が暴走する瞬間があるのだ。

 

人間のもともと持つ欲求や欲望を、世間体やいろいろな理由から過剰に抑圧してはいけない。

 

音楽家である僕は人間のいろんな感情や欲求の中にある矛盾に常に向き合うことが一つの使命だと感じている。大作曲家であるベートーヴェンもシューマンでもブラームスでも、、みんなこの世の中で表せられないような欲求やネガティブな部分を音符に多く託している。過酷な運命をたどったり感じた作曲家が物事の表だけではなく、その裏、影の部分を題材に良い音楽を残した。

また西洋音楽の起源そのものが宗教的考え方の「懺悔と救い」というものに端を発しているのを見てもその人間やその中の持つ裏の部分の重要性や必要性はいつも身近に感じし、そこと向き合うことは生きている意味でもあるとまでも思う。

 

演奏するときはいかに自分というものの枠をとれるかというのは一つの勝負でもある。自分というのは意識状態の変化によって「枠」が変わるものだし、それは脳みそが勝手に決めた境界線でもある。何年か前に流行った本「バカの壁」で養老孟司さんが言っていたことも記憶に新しい。

 

もう少し話を進めると演奏家にとっても聴き手にとっても、その面の部分や人間のこの現世での喜びだけでなく、影の部分や裏の部分を題材にしたり、そこを考え感じるのがなにより大切であると同時に、そこから逃れられる(忘れることのできる)最上の手段も音楽だと常々思う。

 

 

少し話が難しくなったが、とにかく人間、抑圧した思いが爆発することがある。

アイドルのこういった事件では少し前にSMAPの草彅剛が六本木で公然わいせつ事件を起こしたのをみても、男のアイドルがテレビの虚像の世界や世間の本質的なことを見抜けない人々や表面的なことに踊らされるミーハーに踊らされながら年月を重ねた生末の結果ではないか。

自分の表面のみを頑張って演じ切るのはきついのは容易に想像がつく。

彼(山口達也)もそうだったのではないかと思う。

 

つまり彼はいけないことをしたには違いないんだけど、そういったものを作り上げてしまっているテレビや雑誌業界の闇、そして、それに踊らされる、本質的なものを見抜く価値観の薄れた国民には彼を他人事としてみたり、批判したりする資格はないのではないか。

それよりも大切なことは自分の中にもそういった側面や思い当たるところを少しでもみることが愛のある見方ではないか。

男のアイドルがみんなこういうことになるかと言ったらそうではないし、山口達也の心の弱さや人生(離婚からくる寂しさ)など、そういった理由はあるのかもしれないが、世間体を自分の考えや感じたことよりも優先する日本人のよくない側面でもある気がする。


いやはや、、長い投稿になった。。しかしこんなこと言えるのも何杯か飲んだ勢いだからでしょうか。。

 

 

シューマンのピアノ五重奏Es durは学生時代よく、ビオラとセカンドヴァイオリンを弾いた。

師である原田幸一郎先生が室内楽コンサートするとき、ちょっと君も、一緒に、ビオラかセカンドを弾きなさい、という感じで何度か一緒に弾いたからだ。

当時は先生のアイデアや音楽におんぶに抱っこで、、というくらいならまだマシなのだが、、それよりまずまだビオラ符が読めてなかったのでひたすら、

ええと、、この音はト音記号で読むとHのとこに書いてあるから、ビオラ記号では一音ずれてCの音で、、ええとG線の2の指か!
あ!しかもシャープだ!

なんて思っているうちにそこが通り過ぎると言った有様だった。

それから10年は経った。
少しはマシになっただろうか、、笑

先日の3/31の京都アルティコンサートホールでのシューマンのピアノ五重奏の一楽章から。
知り合いに動画撮ってーと頼んで本番中密かに撮ってもらった映像。



さて昨日は愛知県立芸術大学の授業始まりだった。
僕は数年前からこの学校、通称、県芸でも教えている。
ここの生徒を今年は7人担当する。

昨日はガイダンスとレッスンをした。
ガイダンスは普通は学校でするのだが僕は交流会も兼ねてイタリアンでした。

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みんな本当にいい子達ばかりだ。
向上心もあって音楽も大好きな子達ばかり。

しかし音楽家を目指すというのは、普通の大学に行ってサラリーマンになるのとは全く違うものであるし、人前に出れる一人前の音楽家に成長するのはすごく大変なことだし、食べていくということ自体凄くハードルが高い。

そのせいもあるが傾向として音楽の学生は音楽する喜びよりもミスすることや失敗を大きく恐れることが多い。
もちろん、ミスはしてはいけないのではあるが、それにとらわれてもいけない。

そこでみんなによくいっていることがある。

試験で1番にならなくてもいいから、必要とされる人になりなさい。と。。



自分の学生と話していると、よくなる話題に、
「今度の試験のピアニストどうしましょう」
「ピアニストが見つからなくって」
というのがある。


しかしピアニストなんて実際は各学年腐る程大勢いるし、世の中にも溢れかえっている。
要は、共演したいと思う!、、ピアニストがいないのだ。


それをもとにいつもみんなにこう聞く。
「どんなピアニストと弾きたい?
ショパンやスクリャービンが達者に弾ける人がいい?やはり試験で成績がいい子がいい?」

するとかならずみんなは必ず

「いえ、そんなことより、人間がよくてコミュニケーションが出来て派手でなくてもいい音楽が出来て、モーツアルトとかベートーヴェンが弾ける人がいい、という」

つまり指が回る人や正確にピアニスティックに弾ける人はあまり求めてない。

そこでいつも言う。
「それは君たちが音楽家として生き残れるかどうかの鍵もそこにあるんだよ。
試験で表面的なミスのない演奏を目指して一番取らなくてもいいから、みんなに一緒に仕事をしたいと思われるような人間と音楽を磨こうね」と


いつも自分のことは差し置いて人にいろいろ言うのだけは得意である。