2018/12/05 | 鈴木太郎の思うこと

鈴木太郎の思うこと

自分の思うことを書いていきます

前回の更新が2018/09/17だった。

 

それから約3ヶ月近い時が流れたのだけれど・・・。

 

僕は音楽が好きなのでよく聴くのだけど(主に邦楽ロック)、聞いていると「いろんな」という言葉が使われてることが多いように思う。

 

歌の歌詞において、「いろんな」という言葉の使い方は安易なように思えて、基本的に好きではない。

 

事実、世の中にはいろんな人がいて、いろんな考えがあり、いろんな好き嫌いがあるのは事実だ。

 

しかし、自分が感じたことを表現する人がそれをそのまんま「いろんな」と言ってしまうのには違和感を覚える。何故なら、それは表現の放棄と思えるからだ。

 

 

そう前置きをしておきながら、やはりこの3ヶ月近い間にいろんなことが起きた。

 

仕事に対する愚痴はその時々で変わるのだけど、根源的に変わらないのは職場環境と、親子と雇用関係がないまぜになった状態であるということだ。

 

さらに9月からは、自分の下に人が付き、そこから前よりも人間関係がややこしくなったように思う。

 

年上だけど(25歳ほど)、立場は下であるので、基本的に「手伝ってもらってる」というスタンスで僕は接するように心がけた。

 

その男は、やり手で、きっと僕より駆け引きが上手なのだろう。

 

僕自身は、駆け引きの類いはあまりやらない。

 

本当は、駆け引きを多用した方が、自分の立場を優位に出来るのだろうけど、自分はこんな年になっても、自分に非がないのなら駆け引きの類いなど用いず、そのまんまの自分で勝負したほうがいいと考える。

 

考えるというか、それしか出来ないのだ。

 

そりゃ多少の駆け引きみたいなことは出来るようになった。こんな年だから。

 

それでもそれをあまり使わないのは、自分が駆け引きが不得手で、自分が苦手とするもので勝負するより、ありのままで勝負した方がマシだと思ってるからだ。

 

 

そうして3ヶ月、これは表現の放棄ではなく(第一、自分は表現者じゃないし)、いろんなことが起きた。

 

10月2日には死のうと思った。

 

パトカー2台呼ばれる大騒ぎになって、未遂に終わった。

 

11月末には救急車で運ばれた。

 

一度目の搬送先はかかりつけの病院だった。

 

同じ週に、決定的なことがまた起きた。

 

もちろんのように病状は悪化。

 

そして、仕事終わりに立ち寄ったファミレスで、「これはもうダメだ」と思ったので救急車を呼んでもらうが、かかりつけの病院が提示した条件は「入院するなら搬送を受け入れる」というものだった。

 

僕の職場は、基本的に僕にしか分からない業務が多い。そんな、いきなり入院なんて、責任の上において出来ない。そう思って、搬送を拒否し、自力でなんとか帰った。

 

さっき「決定的なこと」と書いたが、その出来事はこの二度目の救急車を呼ばれた後の出来事だったように思う。

 

もう記憶があやふやで、時系列が分からなくなっている。

 

 

そうして僕は、11月27日に通院日を向かえ、その場に母も居合わせて、診断書を出された。

 

診断書には「2019年1月15日まで、休養と休職を要する」と書かれた。

 

だから今、僕は仕事を休んで、ゆっくりとした時間を過ごしている。

 

たまに仕事関係の連絡は入ってくるものの、以前と比べればマシにはなったと思う。

 

しかし、これは根本的な治療にはなっていない。

 

自分の病因は、職場も含めた自分の置かれた環境にあり、自分がそれを受け入れるか、そうした自分の特性を含めた上で周りが自分のことを配慮するようになるか、いずれかの選択肢しか無いと思ってる。

 

もしくは、今の仕事を辞めるか。

 

だから、今は逃避期間中で、実は意味のない時間を過ごしている、という言い方も出来る。

 

確かに病気の症状は鳴り止んだが、一旦その場を離れてしまうと、再び自分は同じ場所に戻ろうと思えるのだろうか。戻ることを許されるのだろうか。それは分からない。

 

しかし、それも考えないでいるのが、今の期間なのだと思う。

 

だから何も考えないよう努めている。

 

 

以上が自分の近況で、この先どうなるかは思考放棄してる限り、何も書けない。

 

よって、ここにも結論は何も書けないまま、終わる。