私が住む地区名「久留引」の由来研究② | 太郎椎茸のブログ

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 同テーマ①に続く

 前回は、わが集落「久留引」の地名の由来について、同様の「久留」がついた地名の由来を参考に考えてきた。今回は前回終わりに予告したように『兵庫県郷土誌叢刊・朝来志』(木村發著・臨川書店刊)を軸に、伝承を交えながら更に広く考察したいと考える。『朝来志』のP361~P364に「久留引村」についての記載がある。その中から、久留引の由来に関する事項を2点指摘したい。(旧表記等は筆者の独断で修正表記している)

 まずは1つは、「相伝う 往古円山川の流域は村の東境、古川筋にあり。その以西は悉(コトゴト)く墾田にして本村人家もまた多くその地に在り。後世河流、ようやく西移せるを以て水害を避けて方今の地に移ると言う。当時丸山の西に堤塘(テイトウ)を築き渓水を瀦溜(チョリュウ)し、以て河西の田に灌漑せり。今その地を梅田と称す。その用廃するに及び、埋めて以て耕地となすなり。」であり、もう1つは氏神に関する記述で、「熊野神社は村西に在り、祭神は事解男神、伊奨冊神、速玉男神、村社なり。境内に櫨(ハゼ)の枯木あり。往昔祭神の降臨せらる所と称す。因って村人相戒(アイイサメ)て使用せず。毎年日を卜(ボク)し村人相会し社前に於いて射礼を行う。これを百手(モモテ)の祭りと称す。」である。前者の文は、昔住民たちは円山川の流域に田畑を所有し居住していたが、円山川の氾濫(おそらく度重なる)により田畑や家屋が流されたため、大倉部山の山麓の小高い所に移住し、丸山の西を埋め立て・灌漑設備を作って新田開発して暮らした、といった意味であるが、古老の口伝によれば「円山川の度重なる氾濫に苦しめられたため久しく留まることのできる安住の地に引っ越した」ことで「久留引」という地名になったという説に繋がる。あるいは、円山川が度々氾濫して流路が変わり蛇行して流れるという所から、先述の久留米の名の由来の一説である筑後川の流路の蛇行=クルベクが転訛してクルブキとなったとも考えられるし、小高い場所に転居したため坂道が厳しく、くるぶいて登る所から「クルブク→クルブキ(クルビキでないことにも注目)」となったとも推測される。後者の文からは、村社である熊野神社の境内に櫨(ハゼ)=ウルシ科ウルシ属 の枯木があり、この木に神が降臨したと伝えられているため村人は櫨の木を崇めて使用せず、毎年百手という射礼(弓を射る儀式)の祭りを行った、という内容である。櫨は木蝋として、あるいは工芸品、細工物に利用されるし、漆としては縄文時代からすでに利用され、樹液を塗る重ねて漆器を作ることができるし、接着剤としても利用できる。また、木弓の材料ともなったという。そこで、上述の『朝来志』の引用によれば、櫨に神が降臨したため「村人相戒て(櫨を)使用せず」とあり、この文言と矛盾するのであるが、一つの推論を以下に述べたい。結論を先に言えば、「くるぶき」の「クル」は「刳(ク)る」であり、がろくろを回して木を刳りぬいて加工し、お椀やお盆などの木工品を制作するのを仕事とする木地師集団が住み着いていたところに由来するのではないかと言うことである。その裏付けとして、①伝承によれば、櫨とは別に、また椋(ムク)の木がご神木のように扱われていたことが挙げられる。椋の木は木工製品の材料として適しているだけではなく、椋の木の葉は細かい剛毛が生えており、漆器の記事を磨くのに利用されるものであるからである。②木地師集団が住んでいたことの裏付けとしては、集落の所在地が大倉部(大蔵部・オクラベ)山の山麓の少し高いところにあり、この「大倉部」は「小椋(オグラ)」の転訛した呼称であり小椋とは小椋氏であり、木地師発祥の地であり、木地師の姓が多い。実際に朝来市和田山町竹田(雲海で有名な天空の城・竹田城の所在地)の寺院には木地師のお墓があり、隣接する養父市には小椋の姓を名乗る方々も存在する。また、竹田は古くから家具製造の町として有名であったが、これも木地師の伝統を受け継ぐものと言われている。③先に挙げた『朝来志』の記述と矛盾するが、実は櫨は利用しなかったのではなくて、とりわけ大切に利用したと言うことではないかと考える。大切に栽培して塗師が漆器作りに活用したのではないか。そうして感謝の証として吉日を選んで悪魔除け、好収穫を祈って射礼の行事を行ったものと考える。以上述べた①②③が私の推論であり、時代は戦国時代末期ではないかと推測する。

 しかし、久留引の地名の由来はそうであるとしても、この地には更に古く古墳時代にはすでに人が住んでいたし、木地師の定住とはまた別にすでに集落が形成されていた。それは『朝来志』からの先述の引用文にもあった「丸山=す蛛塚(スクモヅカ)」はかなり大きな人工的に造成された円墳と考えられるし、その周辺にも小さな横穴式石室の古墳が発見されている。また時代は不明であるが、華(花)寺や寺が谷、寺ガナル、塚ガナル、園通庵などの地名があるし、鎌倉期に源氏側で活躍した佐々木氏の一族がこの地に定住したとの説もあり、探求したい事項は多いが、これはまた別の機会にまとめたい。

 以上で久留引の地名の由来については一旦終わりとします。ごきげんよう。