「神は愛なり」…って、

クリスチャンでない人でも知ってますよね?

だからこそ、

「神さまが愛なのに、なぜ戦争が起きるの?」とか、

「神さまが愛なのに、この世界は理不尽な事多いの?」とか、

「神さまが愛なのに、なぜ病気になるの?」とか、

様々な神さま責任説がある訳です。


不思議な事に、普段は神さまを信じてない人でも、

こんな時には、やっぱり神さまに聞いてみたい?ですよね。

とっても良い人が不幸に見舞われる事もしばしば。

しかしながら、私もなぜなのか分かりません。

はて?なぜでしょうか?


少なくとも、戦争や争いや殺人、暴虐などは人が起こしています。

じゃ〜なぜ?ほとんどの人が平和を願っているのに、

平和どころか?戦争や戦争の噂ばかりなのでしょうね。

必ずしも殺人したい人ばかりではありません。

欲に駆られて戦争を容認している人もいます。

様々な要素が絡まって、争いを助長しているのです。


聖書には、根源には人間の先祖が罪を犯したために、

その性質が繋がって、悪に加担するようになったと。

もちろん唆す悪魔も現実にいる訳です。

うる覚えですが、

第二次世界大戦までは

まだ人間には良心があるから、

そこまで腐ってはいないだろう

と考える人もいたようです。

しかし、ホロコーストや

その後の共産主義者による虐殺の残酷さに、

「人間はここまで悪くなれるのか?」

と当初少しは性善説を信じていた人も愕然としたそうです。


余談ですが、我が家に帰省中のユアンちゃんが何かを溢した時に、

「あらっ?誰が溢したの?!」と言うと、

「カンくん〜」と普通にウソを言えるし、

ちゃんと他人のせいにも出来ます(苦笑)

これは誰も教えた訳ではなく、2歳にして立派な罪人の性質にある原罪そのものです。





年齢については個人差はあるでしょうし、

ある程度正直な子どももいるとは思いますが、

いずれ子どもは天使ではない事を証明してくれる事でしょう!


ところであれ?神さまの愛ってどこに行った?

それが十字架に現された、神の御子の死です。

これが愛…人類の悪の根源罪の性質を負って死んで下さいました。

いわゆる義なる神さまの裁きを、ご自分の御子に身代わりとして負わせられたのです。

そして蘇られ天に帰られまました。


これが本当の愛です。

愛は生やさしいものでも、

ふんわりとしたものでもありません。

壮絶な戦いの末に、勝利された愛です。


あれ?神さまの義はどこ行った?

罪の対する罰を与えないでは、義とは言えません。

この同じ十字架に神さまの義が現されています。

例えば裁判官が、

確実に有罪な人が昔からの友達だからって、

判決を言い渡さない事があるでしょうか?

その友達は、普段は優しいし親切だからって、

有罪を取り消すことがあるでしょうか?

叙情酌量は認められたとしても、

有罪か無罪は確定します。

そして法廷から降りた時には、

その親友の更生のために、

精一杯のことをしてあげたら良いと思います。

今度は十字架ではなく、

裁きのために帰って来られます。



神さまは愛と同じほどに義です!

人間の都合に合わせて、

人間の思いのままに動くお方ではありません。

今の世界で、上手く行っても死んだ後にキチンと裁きをなさいます。

私がたとえ誰も裁かれては欲しくなくても、

神さまがなさる事に意義を申し立てれる立場ではありません。


いつかこの世界で成した事の全てが明るみに出されて、

十字架で許されていない悪事は裁かれるでしょう。

ご安心ください!

正義は必ず勝つ世界が、

いつかは分かりませんが、必ず来ます。

その時「神さまは愛だったなぁ〜」

そして同じく「神さまは義だったなぁ〜」

と納得する日が来ます。