2013年04月05日(金) 晴れ
今日までに宮崎市定の『雍正帝』を、『雍正硃批諭旨解題』の前まで読み終えました。
『雍正帝』については、全部、読み終えた時点でまとめたいと思いますが、
宮崎市定という歴史学者の定見を持って描写された雍正帝という人物は、
いくら私が本のカバーを改竄しようと、本来の肖像画の顔でしかイメージできないです。
リアル雍正帝は、その生涯を振り返ると、本来の肖像画の顔立ち以外考えれないわ・・・。
今日もMさんと『雍正帝』の読書の途中経過と、感想について話たけど、
付録の年表の隙間に若曦との出来事を思い起こしていくうちに、
「だんだん、ドラマと史実の境目があやふやになる・・・」な~んて言い合っていましたが(笑)、
二人とも年妃にまつわる史実は衝撃的でした。
年妃は雍正帝が皇位を得るための功労者の一人だった年羹堯の妹で、
wikiを見ると、夭逝しているとはいえ、四人の子を設け、皇貴妃にまで封ぜられているので、
雍正帝の寵愛も深かったんだろ~なと思っておりました。
だから、若曦も年妃に対するライバル心が強かったのかと思っていたのでした。
【27話(女たちの悲哀)のシーン】
宦官に本日の夜伽の相手の札を選ぶように求められる雍正帝。
さも面倒くさそうに、邪険に札を捲くりつつ、しっかりとお気に入りの「年妃」の札を選んでいる雍正帝。
若曦は、雍正帝と年妃の閨の様子を妄想して、嫉妬に身悶えしちゃいます・・・。
その後も、雍正帝とケンカする度に、「年妃のところへ行けば・・・。」と、
年妃へのライバル心剥き出しの若曦だったけど、
この2年後、雍正3年11月に年妃は亡くなるのです。
雍正帝の下で権力を増大させた年羹堯は、やがて弾劾され、死を賜ることになります。
ここに哀れをとどめたのは年羹堯の妹年貴妃である。
兄の裁判に先立って年貴妃の病気が発表された。
もし病死したらば一段上の位の皇貴妃の礼をもって葬えとの命令もくだった。
予期させられたる病死が何を意味するものであるかは問わずして明らかであろう。
(宮崎市定『雍正帝』P155より引用)
ねぇ、若曦、この史実は知ってた?
あんまり年妃を目の仇にしちゃダメよ・・・。(←ドラマと史実の境界が完全に消滅している私)