「十三の洞門」物語 | 龍飛岬観光案内所 龍飛館

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上宇鉄(かみうてつ)~龍飛までの間に見られる洞門群。

昭和4年の完成時には13あったものの

現在は7つが姿を残しており

利用されているものに限れば4つのみとなっている。



十三の洞門にまつわる物語。

大正末期~昭和初期の写真で

イメージを膨らませながらお読み下さい。


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道の無い村

大正時代。

三厩(みんまや)漁港付近から龍飛までの約12kmにわたる区間には
道路と呼べるようなものはなく、
人々は海岸を通行しているようなものだった。


特に上宇鉄(かみうてつ)地区から龍飛の区間は
岩礁地帯が続いていたため、
人々は岩から岩へ波間を縫って飛び歩いたり、
崖浜をよじ登ったり、海中の洞穴をくぐったり、
穴を開けた岩に挿した棒杭を渡る等、
大変な危険を冒して通行する他無い状態だった。


そのような状況に変化の兆しが見えたのは、大正末期。

宇鉄漁業協同組合の長・牧野逸蔵氏が
「文化はまず道路から」の旗印の許、
決然と立ち上がったのだ。

 
宇鉄漁業組合の黄金時代

旧宇鉄村は大正以前よりアワビが豊富に獲れ、
「アワビの村」と呼ばれていた。
古くは貝をヤスで突き刺す漁法だったが、
明治二十年代頃からは潜水夫が潜って貝を獲る
「潜水器漁法」を取り入れていた。
この漁法により貝に傷をつけることがなくなったため、
アワビはとても高値で売れるようになっていた。
当時はアワビの収益金だけで
村の行政費の2~3年分はあったと言われるほどで、
県下有数の組合だったのだ。



開削工事

牧野氏は、このアワビの収益金を以って、
大正12年、難工事が予想される村内の悪路開削工事に着手した。

開削工事は固い岩盤をダイナマイトで発破し、手掘りをする・・・という、
想像を絶する過酷な作業だった。
このような危険を伴う作業をひたすら繰り返し、
昭和4年、約12kmの道路及び「十三の洞門」は無事に完成した。
牧野氏を中心とする道づくりにかける者達の熱意によって、
難工事を乗り越えたのだ。


道路開通当日、地元の老婆達は余りの喜びに

赤襦袢に下駄履きといういでたちで祝賀踊りに興じたという。


「アワビ道路」と「十三の洞門」のいま

先人達の献身的な努力により造られた道は
「アワビ道路」と呼ばれるようになり、
住民達の生活に大きな文明の光を運ぶこととなった。
そして現在は国道339号に移行されている。

また、歴史的に妙味を残す「十三の洞門」は、
度重なる道路拡張工事により姿を変えていき、
原形を残しているものはわずかとなっている。
しかし、現存する洞門及び洞門跡には看板が掲げられ、
当時の様子をうかがい知ることが出来る。



道路開通記念碑と牧野逸蔵氏の胸像

道路開通記念碑は昭和4年に建てられたが、
昭和52年に修復されており、龍飛館付近にある。
碑文「碑改修之記」でも、
当時の様子を読み取ることができる。

下の画像は昭和4年の完成時に撮られたもの。
真ん中の杖を持った方が牧野逸蔵氏である。


現在の道路開通記念碑。


昭和41年にはその偉業を称えようと
牧野逸蔵氏の胸像がつくられ、
現在は「太宰文学碑広場」に設置されている。



※第7号洞門は完全に消失している
※第12号洞門は原形を留めているものの、看板は無い
※上記2つの洞門以外は取り付けられた看板を確認することができる
※本記事に掲載された一部の画像は龍飛館に展示されている


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