◆その義理は弟子によって・・・。♪ | ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

ザ・ブルーズ・ナイト♪~イソノミヤを求めて~

”イソノミヤ”とは?ギリシャ・イオニア地方のかつての自由で平等な気風の無支配都市であり、伊勢神宮内宮(磯宮)の古い呼び名のことです。

<<25歳でキャリアを立ち上げて>>




彼は1910年9月28日

ミシシッピー州ウェッソンの

ヒューストン・ゴフで


Garfield Goffの息子として

生まれたそうですが・・・。





「実は彼、

自分の出生の詳細を

人生の後半になるまで

よく分かっていなかった様です。」







それで、彼は

プランテーションにいる時に、


フィドル奏者や

2人の滞在者の叔父たちから

音楽を耳にしていたのでした。







「彼は15歳の頃に


クリスタルスプリングスの方へ

2、3マイルの北に引っ越して、


兄弟たちや

Clarence Johnsonと出会い、


彼の音楽の教育が

始まります。」









更に彼らの教育に加えて

Blind Lemon Jefferson,



(Blind Lemon Jefferson)





Lonnie Johnson,



(Lonnie Johnson)





そして


Blind Blake
らの

レコードや・・・。




(Blind Blake)





「地元のミュージシャンたちの

影響も受けたのでした。」







それから彼は

ミシシッピー、アーカンソーと

ルイジアナ中をプレイして、



Mississippi Sheiks



(Mississippi Sheiks)





Robert Johnson,



(Robert Johnson)





そしてCharlie McCoy, らと

行動を共にして・・・。




(Charlie McCoy)






「1930年代中後期に

彼が25歳を過ぎる頃から

彼自身のキャリアを

立ち上げたのです。」









<<ヒューストン・スタックハウス2!>>



今回ご紹介するブルーズマンは

引き続きヒューストン・スタックハウスです。




(今回ご紹介するブルーズマンは
引き続きヒューストン・スタックハウスです。)






彼は1930年代後半までには、

彼はデルタ地域の周辺で

ギターをプレイしました。




「ホウ」




この頃から彼は

最も長く続いたと言われる

協力関係として


Carey “Ditty” Masonと

いとこのRobert McCollum

(Robert Nighthawk)との

2人があげられます。




Robert McCollum(Robert Nighthawk)





「ホウ」




特にRobert Nighthawkには

Tommy Johnsonの曲をカバーして

教えたそうです。



(Tommy Johnson)





「Tommy Johnson!」


「バクチ好きで、女性好き。


アル中でSterno(携帯燃料)に

手を出したり、


売名行為で

”悪魔と契約”したりと

忙しい彼ですね。」







そうですね。(^O^)


でも、当時のトミーの曲は

誰もが興味の対象に

していましたからネ!





「そうでした。」

「トミーは自ら曲を

他のミュージシャンたちに

公開していたイイひとでした。」






そして

彼もトミーの曲カバーした

そのひとりだったのですが・・・。





「ハイ」





技術的な面では

彼は若きNighthawkによって

すぐに越えられてしまった

そうです。





「 O H ! 」

「彼としては

教えた宿命とは言え

複雑な気持ちでしょうネ!」






ウ~ン。


そうですね。


でも、それはある意味

若きNighthawkが、



教え甲斐のある生徒

だったと言えるのでは

ないでしょうか?





「ホウ」





そして

生徒が先生を上回るコト。



これは教えた方にしてみても

喜びなのではないか

と思いますよ。





「なるほど」






それから

1946年に彼は

Nighthawkの近くで生活するために

アーカンソー州ヘレナへ引越しました。



(アーカンソー州ヘレナ)





「エッ!」

「今度は先生が生徒に

ついて行ったのですか?」






そうですね。

それはどうやらNighthawkが

彼にヘレナで一緒にプレイする様に

頼んだそうです。





「なるほど」





そして彼はしばらく

Nighthawkバンドのメンバーで

KFFAラジオでプレイしたのでした。




「ホウ」





しかし1年後の

1947年に彼はNighthawkと分かれて、



ギターリストのJoe Willie Wilkins



(Joe Willie Wilkins)




ピアニストのRobert Traylorや

Pinetop Perkinsたちと



(Pinetop Perkins)





KFFA’s King Biscuit Timeに

出演したのでした。




(KFFA’s King Biscuit Time)






「彼の独自のスタイルが

芽生えてきましたネ!」





そうですね。


それからSonny Boy Williamson 2

ショーを再編成して

デルタ全域でパフォーマンスを

披露したのでした。








「 O H ! 」


「いいですね。」

「ラジオでファン層を拡げて、

ライブに集客を促すワケですネ!」






そうですね。


彼の活動の特徴としては

多くのブルーズマンたちが

広範囲にツアーするのに対して、


彼は地元の工場などで働いて

余暇にブルーズをプレイしたのでした。






「彼、結構、堅実な生活を

送っていますね。」






そうですね。


そんな彼に1965年に

Sonny Boy Williamson2から

 ”King Biscuit Time”で

もう一度加わるように

協力を求められたそうです。





「 O H ! 」

「彼のプレイを Williamsonは

気に入ってくれていたのですね。」





そうですね。


実はその録音が

Williamsonの

最期の吹き込みに

なったのでした。





「 O H ! 」

「Williamsonが亡くなった時

彼には、さぞショックだった

でしょうネ!」





(Sonny Boy Williamson2の墓)





そうですね。


それからWilliamsonが

亡くなった後も彼はしばらく

元のパートナー

Nighthawkと共に、



バックを務め、

ラジオ番組を短く続けたのだ

そうです。





「 O H ! 」


「彼にしてみると

Williamsonの鎮魂(ちんこん)も

意味していたのカモしれませんネ!」






そうですね。




「仲を一度は

違(たが)えたとしても、



音楽においては

協力関係を続けたトコロは

2人とも、さすがプロですネ!」







そうですね。


それからNighthawkは

60年代の半ば~後期の間に


カットされた

一連のセッションで

彼にバックに

ついてもらったそうです。






「と、言いますと?」





Nighthawkは彼が

バックにつくコトで

今までの恩義を返したかった

のではないかと

言われています。





「なるほど」

「Nighthawk。

結構、義理堅いですね。」






そうですね。

それからNighthawkは

1967年の録音から

数ヵ月後に

亡くなったのでした。




(Robert Nighthawkの墓)





「 O H ! 」

「それはまた急な・・・。」





そうですね。




「あっ!」

「ヒョットしますと

Nighthawkは

死期を既に悟っていて、


それで先生である彼に

バックをお願いしたのでは?」






ウ~ン。

その可能性は

実に高いそうですね。





「音楽を通して

師弟関係を結び、


その義理は最後まで

弟子によって

貫かれたワケですね。」










☆Houston Stackhouse -
Cool water blues (1967) ♪


☆Houston Stackhouse,
Big fat mama blues ♪


☆Houston Stackhouse
 Talkin' 'Bout You (1967) ♪


☆Robert Nighthawk And Houston Stackhouse -
Bricks In My Pillow♪


☆Houston Stackhouse -
Sweet Home Chicago ♪










☆ヒューストン・スタックハウス

Houston Stackhouse


(1910年9月28日- 1980年9月23日)



アメリカン・デルタ・ブルーズ・

ギターリストでシンガー。


Robert Nighthawkとの

提携でよく知られていた。




(Robert Nighthawk)




彼はギターリストまたは

シンガーとして

特に注目を集めなかった。





だが、Nighthawkは

彼のギターの先生で、


1960年代後期の

幾つかの録音で、


彼のバックを務めた

彼への感謝を示した。





ヨーロッパでのツアーを

別にすると

彼のパフォーマンスは

ミシシッピー・デルタの

周辺の地域に限られていた。




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デルタのスライド名人

Robert Nighthawkの師匠

ヒューストン・スタックハウスは

彼の有名な生徒と同じく

商業的または芸術的な

成功を収めることは決してなく、


そして彼の地元の

ミシシッピー州以外では

ほとんど知られていなかった。
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< 略 歴 >



1930年代後半までには、

彼はデルタ地域の周辺で

ギターをプレイした。


そして、

Mississippi Sheiks,


 

(Mississippi Sheiks)




Robert Johnson,



(Robert Johnson)




Charlie McCoy



(Charlie McCoy)




そしてWalter Vinsonの曲と共に

働いたのだ。



(Walter Vinson)




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この期間からの

彼の2人の最も続いた協力関係は

Carey “Ditty” Masonと

いとこのRobert McCollum


ー Robert Nighthawkの名で

知られているーで、


彼はギターのプレイを

教えたのだった。
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彼はまた、

遠縁のいとこのRobert Nighthawkと

協力し合った。


彼はギターのプレイを教えたのだった。




当初、Tommy Johnsonの

ファンであり、

彼はしばしば

トミーの曲をカバーした。





(Tommy Johnson)



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1910年9月28日にウェッソンの

小さい町で生まれて、

彼はTommy Johnsonのファンで、


特に才能のあるシンガーや

ギターリスト関係なく

曲をしばしばカバーした。



彼は若きNighthawkによって

すぐに越えられてしまった。
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1946年に彼は

Nighthawkの近くで生活するために

アーカンソー州ヘレナへ引越した。



(アーカンソー州ヘレナ)



そして

しばらくNighthawkバンドのメンバーで

KFFAラジオでプレイした。




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1946年にNighthawkは彼に

ヘレナで一緒にプレイする様に

頼んだ。


そこで彼はほぼ25年間

滞在したのだ。





1年間彼はNighthawkの

バンドのメンバーだった。


そして

アーカンソーとミシシッピー中で

それから

Mother’s Best Flourが

プロモートしている

KFFAラジオでプレイした。




(Mother’s Best Flour)





1947年にNighthawkと

不仲になった後に、

彼はドラマーの

James “Peck” Curtis

と一緒になった。




(James “Peck” Curtis)




そしてJamesは

ギターリストのJoe Willie Wilkins



(Joe Willie Wilkins)




ピアニストのRobert Traylorや

Pinetop Perkins
と並んで




(Pinetop Perkins





KFFA’s King Biscuit Timeで

働いていたのだ。




(KFFA’s King Biscuit Time)
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1947年に彼はNighthawkと分かれて

ドラマーの James "Peck" Curtisと

並んで

ギターリストのJoe Willie Wilkins 、

ピアニストのPinetop Perkins

そしてRobert Traylorたちと

KFFAラジオ番組” King Biscuit Time”に

出演した。





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彼はまた

現代のヘレナ-ウェストヘレナ

(フィリップス郡)のヘレナから

KFFAラジオでプレイした

”King Biscuit Boys ”の

メンバーとして

地元でも名声を獲得した。




(”King Biscuit Boys ”)
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Sonny Boy Williamson 2

それからショーを再編成して


そのコンボは

彼らのコンサートの宣伝のために

ラジオを使い、

デルタ全域でパフォーマンスを

披露したのだ。





彼はギター・テクニックでは

Jimmy RogersやSammy Lawhornを

教えた。



(Jimmy Rogers)




(Sammy Lawhorn



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彼はJimmy Rogers

Sammy Lawhornの両方に

ギターを教えた。

同じく

Elmore James, Earl Hooker,



(Earl Hooker)




Willie Love, Ernest Lane,



(Willie Love)




(Ernest Lane




そして Roosevelt Sykes.
など、



(Roosevelt Sykes




ヘレナ通して

あらゆる重要な音楽家たちと共に

プレイしたのだった。
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1948~1954年に彼はアーカンソー州

ウェストヘレナ

(メンフィス?<クリテンドン郡>)の

クライスラー工場で

日中働いた。


そして彼の余暇に

ブルーズをプレイしたのだ。





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彼の仲間のブルーズマンの多くとは異なり

彼は南部に残った。


そして

1950年代を通して

いつもの仕事をして

地元でパフォーマンスを

披露し続けた。
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彼は多くの同世代と違い

南部から動かなかった。

そして、

Frank Frost, Boyd Gilmore



(Frank Frost)




そして Baby Face Turnerと共に

1960年代を地元でプレイし続けた。





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1965年に Sonny Boy Williamson2は

ヘレナに戻り、

彼に King Biscuit Timeで

もう一度加わるように

協力を求めた。
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1965年5月Sonny Boy Williamson2は

”King Biscuit Time”のバックで、



Arhoolie Recordsの

Chris Strachwitzにより




(Chris Strachwitz)




コンサートを録音したときに

彼を使ったのだった。


☆Sonny boy Williamson 2 -
 Pontiac Blues♪






録音は”King Biscuit Time”の

タイトルで Williamsonのネームで

リリースされた。



(Sonny boy Williamson”King Biscuit Time”)





その録音の直後、まもなく

Williamsonは亡くなった。






☆the death of sonny boy williamson ♪





しかし彼は元のパートナー

Nighthawkと共に

バックを務め、

ラジオ番組を短く続けたのだ。





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その学生(Nighthawk)は

60年代の半ば~後期の間に



カットされた

一連のセッションで、



彼がバックにつくコトにより

彼に恩義を返したのだった。
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1967年にGeorge Mitchell は

ミシシッピー州ダイディで、


Blues Rhythm Boysとして

Stackhouse,  Peck Curtis

そして Nighthawkを録音した。




(Blues Rhythm Boys)

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これはNighthawkの

最後の録音になり、

そしてその数ヵ月後に

亡くなったのだ。








1週間後にフィールド調査者の

David Evansは

長年のパートナーのDitty Masonと

クリスタルスプリングスで

彼を録音した。
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録音が終了した直後に

Nighthawkは亡くなった。


もう一人のフィールド調査者の

David Evansは

クリスタル・スプリングで

彼を録音した。

                      (ウィキペディアより抜粋)

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