「そもそも」の話をしてきて昨日にそのまとめのつもりで書いたんですがまあそもそもと考えるようになると脳にもフレーズとして残り、謎解きが始まり、何でも答えが出て、
自分の答えを出す前後に体験も伴い、腑に落ちるという話でした
どんどんと謎解きして行くと、自分の思考に広がりも感じます
そして、その広がりの奥へも進んで本質も自分のものとなって行きます
そうして広がっているうちに自分を見失う人もズレていく人も出て来るのはしかない当然の事でもあります
そして、昨日も書いたようにその答えが自分の呪縛や執着を手放す事となるというところですよね
執着や呪縛も自分から離れていくと、空虚感というものも味わうようになり、
方向が自分の内側に向いてくるようになります
そんな時に「自分の壁」というところにぶつかったりもします
「そもそも」という事から広がると、
そもそも何で自分はその事について考えているんだ?
そもそも自分はどうしてそう考えるんだ?
そもそも自分の考えは正しいのか?
そもそも自分の考えを自分は信じられるのか?
そんな感じに自然と自分に向き合うようになります
もちろん自分に自信も持っていて、自由に今を突き進んでいる人はそのままで良いと思います
たまたま「自分の壁」にぶち当たった時の目の前の「そもそも」という事を意識すれば良いだけです
普段の小さな事にも「そもそも」ってあるんだと意識してもらえれば良いと思います
例えば尿意をもよおす時でも考えていく人はいないと思うのと似ている
脳が指令して自然に行動にうつり、トイレに行きますよね
でも尿意はもよおしても我慢しないといけない時には理由もあり、言い訳もし、言えなかったり、遠慮したり、我慢します
その我慢が続くと色々病気に繋がります
私も美容師しているので、若い頃はいろんな理由で大小我慢していました
尿意も便意も我慢している間はいけない事が「仕方がない」としか思いませんでした
大ごとになりませんでしたが、結婚してからいろんな「我慢」という事の「そもそも」を考えていた時に
自分の時間を大切にしようとか、人に合わせてばかりじゃいけないとか
自分の行動を考えた時、まあオットの時間にばかり合わせないと決めた時ですが、すんなりそれ以来の便秘も不思議になくなりました
自然に向き合って、自分なりに答を出して行くと、「そもそも」問題に行きつく場合もあるという事です
そんな事も始まりだったと思います
どれだけ大事なオットや子供、親の事でも、
そちら側に自分の意識が向いて、相手に向けての答えを出そうとしても本当の答えは出ないんです
その大事な人達は縁あって私に色んな気づきを与えてくれている大切な人というだけなんです
自分の答えを出して行くと、その相手の役割も相手との絡みも減って行きます
自分が生まれて、自分が生きて、自分が死んでいく人生です
「そもそも」はその自分と向き合う事を教えてくれて
自分のこの世の答えを見つけていく事なのかなって思います (^.^)