僕が大学受験業界に初めて関わったのは1997年だ。

都内の小さな学習塾。

1999年からは、高校で非常勤で教えたり、予備校で時間講師をしたり、振り返ればもう20年が経つ。


専門科目は、『日本史』。


今はサラリーマンになって、様々な仕事をしているが、断続的に、受験日本史を教える場面もある。


ただ『日本史』だけでは受験に勝てない。


いわゆる主要三教科である国語、数学、英語は、センター試験でそれぞれ200点満点。


英語などはリスニングを筆記と圧縮せずに足せば250点にもなる。


所詮、日本史は100点なのである。


一つ、信じていることがある。


受験を制するために、絶対、英語を苦手科目にしてはならない。


逆に英語が武器になれば、国公立がダメだったとしても、私立で日本史も英語で高得点を出すことができ、そこそこの大学には合格できる。


そんな実感がある。


やっぱり、英語はキーなのである。


しかし、英語ほど、学校や塾、英会話スクールなどで、教え方、学習の仕方が千差万別である科目も珍しいと常々思っていた。


文法が命だ、まず長文読む前に文法を極めろ、という人。


文法は、暗唱例文を意味を理解しながら覚えることが大切だ、という人。


長文を読む前に英単語だ、まず『ターゲット1500』で良いから、全て覚えろ、という人。


『ターゲット』は悪魔の書、絶対に手を出してはならない、という人。


文法も単語も長文を読みまくる中で身に付けていこう、という人。


いったい、子供たちはどれを信じれば良いのか。


こんな状況なのに、これからの英語教育は、“四技能”だ、などと文科省は打ち出して、聞く、話す、読む、書くなど、身に付けなくてはならないスキルはますます増えていく。


指導法は、有効かそうではないかの検討もままならず乱立しているというのに。


そうした混沌した英語教育の道筋に光を照らすような金沢優の『もしも高校四年生があったら英語を話せるようになるか』。


前から思っていたこと。


日本の英語教育は、英文を日本語訳をさせる習慣が、常に、長文を読むときも、会話をする時も、悪い方に働いてしまい、いつまで経っても実用的にならないということ。


つまりは、英語でネイティヴと会話できるようにならない、英文で書かれた外国の物語をストレスなく読めるようにならない、ということ。


本の中では、それを分かりやすく、ズバリと原因まで含めて指摘していた。


そして、どうして日本語訳をすることが日本の英語学習の中心に自然となってしまったのか、その背景まで。


英語をいちいち頭の中で日本語にしていてはネイティヴと会話などできぬ。


受験においても、センター試験の第5問、第6問を解き切る前に時間切れになってしまう。


そのためには、英語を英語のまま、言っていることを脳内でイメージできるようにならなくては。


そして、やはり、そのためには圧倒的な単語力が必要だと言うこと。


それは、ターゲットがダメだとかそういうことではなく、やはり、やり方、取り組み方で、単語も、文法も、その言葉が示す意味合いを直接イメージ化して捉え覚えようとしているか、、、


日本語を一切介さずに、、、ということである。


この本を通じて、僕は改めて確信に至った。


英語の勉強方法について。


そして、英語を話せることの素晴らしさについて。


物語自体は、すごく簡明で、勧善懲悪。


英語教育に携わる人や、英語を話せるようになりたいと思っている人のモチベーションを上げるのにも、うってつけだと思う。


さて、今年の目標は500本の英語長文を読むことだったけど、それに加えて、身の回りにあるモノ全て英語で表現できるように頑張ろう。


道は照らされた。


あとは行くだけ。


そして、上手くいったら、誰かにそれを伝えたい。