新政府軍は長岡藩に対し3万両の献金と、会津討伐のために兵を出すよう命じ、恭順を迫ります。しかし、河井はこの命令を無視。河井は、「中立」を貫くため、新政府軍との談判へ臨み、幕方と新政府軍の調停を行う事を申し出ることを決意します。

 

河井は新政府軍が陣を構える小千谷にて、若き軍監・岩村精一郎との交渉に臨みます(小千谷談判)。岩村は当時24歳で、河井は42歳。親子ほどの年の差がありましたが、会談は岩村が一方的に河井を威圧する形で行われました。

 

(小千谷談判の舞台となった「慈眼寺」 出典:Wikipedia)

 

それでも河井は、「中立」の立場で会津藩を説得するので軍を停止して貰いたい、と熱心に訴えます。しかし、若い岩村に河井の意図が理解できるはずがありません。岩村は、一方的に要求を突きつけるだけで、交渉はわずか30分で決裂。岩村に敵とみなされた河井は、やむなく参戦を決断し、新政府軍と長岡藩の戦端が開かれます(北越戦争)。

 

このことは新政府軍にとっても不本意で、後に、新政府軍の参謀であった品川弥二郎をして「なぜ河井との交渉に岩村のような小僧を出したのか。もし、河井の話をまともに聞ける人間が交渉していれば、北越戦争は止められた。」と言わしめています。

 

河井は、日本のため、長岡のため、戦争を止めようとした立派なリーダーでした。常に勝者だけが正しいわけではありません。歴史を学ぶ際には、勝者と敗者両方の立場から、物事を見ることが大事ですね。