ダム建設が始まると、八田は「良い仕事は安心して働ける環境から」という考えから、従業員用の村を作り、商店や娯楽施設なども整備。従業員だけでなく、その家族のことも思いやりました。日本人と台湾人を分け隔てなく付き合い、人事や給料も平等にした八田は、作業員たちから慕われ、八田のもとで働くことを誇りに思う人も数多くいました。
一時はガス爆発事故により大量の犠牲者がでるなど、悲しみに暮れる八田でしたが、作業員たちの熱い応援に支えられ何とか持ち直し、ついに烏山頭ダムは完成します。かつて不毛の地であった嘉南地方は台湾で一番の穀倉地帯に。これにより、農民たちの生活は大きく向上することとなります。その後も八田は、アジア圏のダム建設に数多く手掛けますが、1942年、フィリピンへ向かう途中にアメリカの魚雷攻撃を受けて殉職。嘉南地方の人々は今でも八田に対する敬意を持ち、命日である5月8日には毎年必ず慰霊祭が行われています。
台湾のダム建設に尽力し、今でも慕われる八田。しかしその業績は、残念ながらまだ日本人には十分知られていません。現在の親密な日台関係には、このような一人の日本人の功績があるのを私たちは忘れてはなりませんね。
※写真は、八田の伝記本を監修された許光輝さん(左)が、衆議院議員会館の私の部屋に来られた時のもの