8月の暑さが続いています。慰霊の季節がやってきました。



最後の歴史シリーズです。後輩のtaiyo君からの質問への返事です。

http://ameblo.jp/tanuma/entry-10039487786.html#c10059389722



再度書きますが、taiyo君同様、私はネットの議論があまり好きではないです。ネットの情報は非常に限定的で、誤解を招きやすい。ネット情報と実物が全然違ったという経験は、多くの方もしていることと思います。

このテーマも質問とお返事が続いてしまっており、もう私信レベルとも思いますが、前回同様に重要な論点も含まれていますので、リスクもありますが最後にお答えします。


※その意味で、初めから、削除していい=私信でもいいと言ってくれているのが、有難いところです。

あと誤解を避けるため断ります。文が言葉足らずかもしれないですが、私はこれまでずっと、全く冷静です。

ただ筆力不足で、ちょっと書き過ぎてしまっています(前回も、今回も)。ご容赦ください。




★①


靖国という形式を取ることで、そうじゃない人と比べて慰霊の気持ちが強くて素晴らしい」とは言っていないし、思ってもいません。
等価だとかそうじゃないとか、そういう比較はそもそも無意味と思います。個々人の心のあり方を競争するのは、本質から外れています。
本質、私の願いは、ひとりひとりの個人が自分なりに、温かい慰霊の気持ちを持って欲しい、というだけです。
だからtaiyo君と意見は異ならないのかもしれません。



しかしtaiyo君の考えには、1つ重要な形式が抜けているように、感じます。
日本人なら、命日の日に、魂が返ってくる「場所」に直接行き、お墓参りをするのではないでしょうか。それが自然な伝統的行動ではないでしょうか。
ゆえに、靖国以外の選択肢は、通常はあがってこないと、私は感じています。




もちろん、本来は、その方のお墓に直接行くのが、自然とおもいます。taiyo君のように、おじいさまが軍人だった場合は、靖国参拝よりもお墓を重視するのも自然と思います。

(そもそも参拝自体をどこにもしない、という方もいると思いますが、それは前の議論なので割愛します)


しかし、それは血族に英霊がいる場合です。
たとえば私は、肉親に軍人の戦死者はいません。しかし英霊への感謝の念は強く、参拝する。個人としては血のつながりのある祖先はいないけれども、国家の為に働いてくれた人への感謝が尽きないため、お礼を言いたくなる。
端的に言って、私が英霊の魂と会う場所は、靖国しかないのです。



つまり、taiyo君がお墓に参拝するのは、私人としての感情であり、私が靖国に参拝するのは公人としての感情です。
でもその根っこは、同じく、お墓参り。ご先祖への感謝と供養を捧げるためです。
私の場合は、血族である先祖への感謝と同時に、非血族ではあるが祖国のために働いてくれた先人への感謝も、別のものとして存在し、ゆえに参拝をしています。


この心理は、多くの人、それこそ首相であっても同じと思います。おそらく中曽根元首相にも小泉前首相にも安倍首相にも、血族の英霊はいないのではないでしょうか(確認していませんが…)。ましてや毎年終戦記念日に参拝する多数の人では、なおさらです。それでも参拝するのは、やはり日本国民として、公人としての、感謝と慰霊の念からと思います。



私たち日本人の倫理観が呼び起こす行動は、命日の日に、魂が返ってくる「場所」に行き、魂との対話を心の中ですること、ではないでしょうか。だから英霊たちの命日である8月15日に、多くの人が靖国参拝をする。
それは、その少し前のお盆にご先祖様に会いに帰省することや、春や秋のお彼岸と同じと思います。私たちの倫理観、伝統習俗として根付いているから、起きる行動と考えます。


このことが、「ある形式の押し付け」と感じるのは、どうもインテリ的というか、頭でっかち的というか、日本人の自然な倫理観から判断していないように感じてしまいます。


どうかな?




その意味で、ちょっと表現で気になるところをあえて書きます(本当はもう話したほうがいいレベルだろうけど...)。もしかしたら話がそれてるかもしれないので、その場合は無視&許して下さい。


どういう意図で「ある形式を取ることは、そうじゃないことに比べてとても簡単だし、あんまり考えなくてもできる」と言っているのでしょうか?


むしろ思いますが、それこそ慰霊は、「あんまり考えなくて」いいことではないでしょうか。考えることではなく感じることです。倫理観で判断すべきことです。

感じてなすべき行動を、考えて行動しようとするから、靖国への見方がおかしくなってしまうのではないでしょうか。



私の想いは、シンプルです。

祖国のため、すなわち後世の私たちも含めた、日本のために働いてくれた方に、感謝を捧げたい。

自分がお世話になった人に、敬意を持ちたい。

それだけです。



ひとつの形式、靖国参拝という形式、この簡単で考えなくていい形式を、なぜ否定するのかがわからないです(怒っているんじゃないですよ、本当に不思議なんです)。

そんなに人は、特に慰霊のような心の問題を、「考えなくてはいけない」のでしょうか。慰霊の正当性やら代替形式やらを考えて行動しなくてはいけないのでしょうか。

私はそうは思えません。もっとシンプル、ストレートでも、いいのではないでしょうか。



私は、民衆の無意識、良識、感性、伝統的倫理観を、信頼しています。日本人の文化、生き方と言ってもいいです。
自分のために尽くしてくれた人に対して、感謝の気持ちを感じ、お礼(行動)すること。故人であるなら、その魂が返ってくることを感じ、お迎え(行動)すること。
このシンプルな感性で、十分なのではないでしょうか。そして、このシンプルさこそ、複雑に見える現代において大切な、本質なのではないでしょうか。



なにか意見がずれてしまっていたら、教えてください。



誤解を避けるため書きますが、「考えることが悪い」とは言っていません。考えてもいい。けれどもそうしていろいろしているうちに、行動が遠ざかってしまわないか、というおそれがあるのです。一方、感じることは、行動と直結します。


いろいろ考えている人のうちには、なんのかんのと言っては何もしないしそれで心も痛まない、という知り合いも、私はずいぶん見てきました。残念です。靖国でもそれ以外でもよいですが、参拝・供養という実際の行動だけはして欲しいものだと思いますし、自分もそうしなければと気をつけています。


もちろんtaiyo君のことだから、そういうことはないと思いますが、私は「自分の頭で考えて、心から慰霊」することだけが特別素晴らしいとも思いません。どんな慰霊でも素晴らしい。ちゃんと行動をしていれば、それでご先祖様には喜んでいただけると信じます。


おじいさまを大切にしてあげてください。




★②


①が長くなってしまいましたが、むしろ気になったのは②です。



まず、taiyo君ならご存知かもしれないですが、「きけわだつみの声」は、編集方針が恣意的という批判があります。左翼的な文章だけを集めているのです。
我々の共通の師匠である、立花さんも、左側からの「歴史の改竄」であると批判しています。Wikipediaなどで、調べてみてください。
ゆえに、客観性が弱い部分があることを、差し引かなくてはいけません。



それから「彼らの中で本気で「靖国で会おう」と言えた人は、多くはなかったのではないか、と思えてならない」のは、どうしてでしょう?
私も読みましたが、確かに「理不尽さの中、慟哭の中で死地に赴いた」人もいましたが、そうでない人もたくさん、むしろそっちのほうが多く、いますよね。なのになぜ、「理不尽派」が多かったと、「立証」できるのですか? むしろ理不尽派が少なかったと立証できてしまうのではないでしょうか(この本の編集の恣意性を含めても)。



「靖国派は多くなかったと思う」「理不尽派が多かった」とtaiyo君が思うのは、やはり考え方の背景に、「英霊たちは騙されていた、先の戦争の犠牲者だ」と、潜在的にせよ、信じているからではないでしょうか。

だから素直に文章を受け取れない、「これらの文は本心ではないはず」と感じてしまうのだと思います。



私は思います。もし私自身の立場が、彼ら若者たちと同じだったとしたら、やっぱり遺書には本心、真実を書きます。思ってもいないことは書けません。人は死を前にして、自分を偽れないからです。
わだつみのこえでも、『英霊の言の葉』でも、ひとつひとつの遺書には真実があると、私は考えます、いや、感じます。本気の言葉の迫力を、強烈に感じるのです。



私は、遺書には真実があると思うし、「先の戦争は侵略戦争であり若者たちはそのだまされた犠牲者である」とは必ずしも思いません。
かつては私も、taiyo君と同様に考えていました。しかし当時に肉薄すればするほど、もっと冷静で普通の等身大の人々だったことがわかってきたのです。だからこそ、その中での遺書の決意、家族を故郷を守ろうという決断に、感動するのです。



いまの教育で生まれる歴史感覚の、致命的問題点は、歴史上の先人の想いを感じ取る、素直さと想像力を失っていることです。これは私自身の反省でもあります。


いろいろな考え方が頭に入ってしまった結果、純粋に遺書を読めない。相手の気持ちがわからない、感動もできない。自分と関係のない世界と思ってしまう。・・・私にはそのように見えてしまいます。

純情。素直さ。そういう人間であろうとすること。時代を超えて、相手の気持ちに共感できること。それがいまこそ、大切なのではないでしょうか。忘れかけている、道徳なのではないでしょうか。



確かに、taiyo君ご存知の通り、私は性格として、単純すぎるというか、純情すぎるかもしれないとも思います。(まあ単純でなければ、歴史に感動して、バックなしで政治に挑戦などしないでしょうが、、、)

しかし私は、やっぱり、この感動を伝えたい。そして自分も、立派な生き方をしたいし、立派な国を創りたい。ゆえに、立ち上がりました。

他ならぬtaiyo君なので、ぜひそれを、わかって欲しいです。
ぜひともこの本を、読んでみてください。私は涙なしには読めなかったです。そして行動しない自分を恥じました。

私が政治を決断した本です。


『今日われ生きてあり』  




★③


まぶにの件は、同感です。
慰霊を商売にする人には、私も若干違和感があります。


しかし花を捧げる=お金をかけるか・かけないか、という違いと、
慰霊の場に足を運ぶか・運ばないか、という違いは、全然次元が異なります



taiyo君同様、私も、お金をかけてないから強い慰霊ができないとは全く思いませんが、
慰霊に足を運ぶことは、運ばないことよりもずっとよいと思います。


それは①で述べたように、魂がそこにある・返ってくるからです。
家に返ってくる場合はもちろん、家でよいと思いますが、何にせよ魂本位で決まる場所に、後世の我々が足を運ぶことは、先人を偲ぶための重要な形式だと、”感じています”。私自身、足を運べないときは、せめて心を痛めたいと思っています。


大事なこと、本質は、場所自体ではなく、魂が返ってくる場所に行くことで、そうであるなら、家でも靖国でもお墓でもどこでも構わないと思います。