前回までの「子どもを産んじゃダメ!と思ってた」シリーズ
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第3章
「子どもはいらない・産んじゃいけない」と思っていた理由の1つに、大人も子どもひっくるめ人間が嫌いと言うものがございました。
前回の「“生きづらい人間”でありました 」でもお話ししましたが、私は自己肯定感が低かったので、人間である自分を嫌っていました。自分が嫌いなのだから、自らこの世に新しい命を産みたいなんて、思うわけがないのであります。
そもそもこの自己肯定感の低さは、再三登場する「見捨てられ感」「愛が足りない感」「子ども時代やり残した感」からくるもので、親との関係、とくに母親との関係が原因のひとつだと思うのであります。
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たんたんは1977年に生まれました。
私の父は、かつて県会議員でした。
2歳の時に落選、4年後初当選。そこから20歳ごろまで、私は「政治家の娘」でした。
母は、議員になるチャンスが訪れた当時の父の説得により、結婚後わけも分からぬまま「政治家の妻」になったといいます。
それは母にとって、まったく予想もしなかった人生。“母親”よりも“政治家の妻”としての務めを優先させ、世間に叱られぬよう、夫に恥をかかさぬよう、必死で日々を過ごしたといいます。
また、私には現在5歳離れた妹がいますが、じつは間にもうひとり、妹がおりました。しかし生まれてすぐに亡くなっております。「夫の出馬」「落選」「子の死」。この頃の母は、きっと穏やかな精神状態ではなかったのでありましょう。
そんななか、私はよく近所に住む伯母や、祖父母に預けられていました。伯母は泣きやまない私をおんぶし、近所の踏切までよく連れて行ったといいます。「ママちゃんまだかね~、早く帰ってこないかね~」と。帰ってこないのは百も承知で。
その頃の母は「政治家の妻」として父にかかりっきりの日々。父に気を使い、父のために生きていたように思います。
我が家は朝食をとる習慣がありませんでした。父に朝食をとる習慣がなかったため、当時の母は作らなくて良いと思ったのかもしれません。また忙しかったせいか、母に「おなかすいた」と言うと怒られるイメージが私たち姉妹にはありました。家事をするにも何をするにも母はいつも不機嫌。父も自宅で食事をすることはめったになく、家族で食事と言えばほぼ外食でした。
また私の成績が悪いことで父に責められるのを嫌った母は、学校のテストの前日にはいつも私を徹夜で勉強させました。出来の悪い私の横で「なんでわからんのだ!」と机をバシバシ叩きながら怒り狂う母……。中学受験を目指し、長い休みには朝から夜まで塾へ通わされました。
そして迎えた入試。家に届いた合否の通知。封筒を開けるまで私は「どうかな、どうかな~」とウキウキ笑っていたのですが、急に母は気が狂ったように泣き、怒り散らしました。私はこの時初めて、不合格通知は開けなくても分かる薄いものなのだと知りました。
ぐしゃぐしゃにされたその緑色の不合格通知は、出来の悪い私になんだかとても似ていました。
このように、私にとって母親とは、いつも不機嫌でカリカリしていて、口答えすると「もういい!」と無視をされ、愚痴の耐えない人、というイメージでありました。
それでも世間にはニコニコする両親。本当は仲が悪かった。親だけでなく私自身も世間に気を使いニコニコ。家とのギャップで押しつぶされそうな日々。我が家は家庭としての機能を失っていました。
そんな幼少期でしたから、私は母親からもらう絶対的な愛の量が少し足りなかったかもしれません。「何があっても子どもが一番」というような、最初にもらうべき母性が欠けていました。
そのうちに私は、女性でありながら、女性という存在を見下すようになりました。
今思えば、それは「何があっても子どもが一番」を貫いてくれなかった母へのあてつけだったのでしょう。男性に仕(つか)えすぎる女性も、感情的でヒステリックな女性も嫌いでした。男性が言う「いい女」とは「都合のいい女」。そう思うと、女性っぽい体つきになることすらイヤでした。
「“理想の母親”でなければ子を育ててはならない」
「こんな状態の私が子ども作るなんて無責任だ」
「子どもをつくらないのは正義だ」
こうやって私は「子どもはいらない・産んじゃいけない」と強く思うに至ったのです。
どんな家庭環境で育っても「自分はそれを反面教師にしよう」と前向きになれば良いのです。しかしお恥ずかしいことに、昔の私はそうは思えませんでした。母の嫌いな部分を受け継ぎ、自分も我が子に同じようにふるまうのではないだろうかと恐れ、それによって起こる「不幸の連鎖」が何より怖かった。
そして自分を大切にしない事で、本能的に親への復讐をしていたのでありましょう。
不満足な日々のなか、なんとなく襲ってくる不安感を、なんとなく女性、しいては人類にぶつけてきました。
子どもつくってやるもんか、と。

でも本当は、私はママが大好きで、ずっとずっと甘えていたくて、一番の味方でいてほしくて、愛されたくて抱きしめられたかった。ママもパパも本当に本当に大好き。素直に言うと、ただただそれだけです。
3歳までの記憶にない出来事は、無意識下にあって修正することができません。そもそも記憶にないのですから。苦しんでる事さえ気が付かず、人は大人になります。
「見捨てられ感」「愛が足りない感」「子ども時代やり残した感」
これらの言葉に辿り着き、受け入れるまで、ずっと原因がわからぬまま、なんとなく苦しいのです。
でも、今の私は当時の母を理解し、意識的に受け入れ、修正する事ができます。
そう、やり直すことができるのです。
無いものを数えるより、あるものを愛そう。
過去を生きるより、今を、未来を冒険しよう。
いろんな人や出来事を愛し許し、自分を愛し許した結果、「子どもを授かって良い」と自分に許可を出せたんだと思います。
不幸の連鎖と悩んできたこと、逆に過保護になりすぎないかと悩んできたことも、今では「まあ、大丈夫か」と思えるようになりました。さらに言えば「たとえ育児に間違いがあっても、我が子はきっと負けずに自分の人生を歩んでくれるだろう」とも思います。だって、私にもできたんだから。
自分の子どもを誰よりも信頼すること。それこそが愛なんだと思います。
あと何より、カネシゲさんがいてくれるから大丈夫なのであります(笑)

そして当時そんなふうだった母も、いまではすっかり変わりました。
私が“生きづらい人間”と診断された事もありますが、同じ人間とは思えないくらい「理想の母」に変わってくれました。母も大いに悩み、傷つき、今一度自分の人生を見直し、生き方を変えたのだと思います。出来の悪い私をあるがままに受け入れ、精一杯の愛を注いでくれるようになりました。信じられないほどです。私は誰よりも愛されています。
本来の母はきっと今のような素敵な女性で、本当はずっと昔から、私はちゃんと愛されていたんだよね。
そのことに気づけたことに、感謝です。
出産は東京で行う為、母は予定日の少し前から泊まりに来てくれます。
あの頃してもらえなかった事――じつはもう十二分にしてくれていますが(笑)――出産のせいにして、いっぱい、めいっぱい甘えて過ごしたいと思います。
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最後に。
私は今、一人の人間として母の子どもに生まれてきた事を心から誇りに思っています。
ありがとう。

photo by Fujiwara sachiko
前回までの「子どもを産んじゃダメ!と思ってた」シリーズ

