鷺洲の水路跡を偲ぶ | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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《鷺洲に架かっていた橋の準備調査
 2018-10-25 18:10:30》に挙げました調査時の
もう一本のレポートが
阪俗研会友の澤田耕作さんから届きました。

◆10月25日朝10時に鷺洲小学校に
 末廣(福島区歴史研究会)会長以下7人集合しました。
 校長先生の説明後、中庭に案内され、
 判読しづらいものもありましたが、
 5基の道標・橋柱を確認出来ました。
 そして次は学校の外に出て、
 古地図と照らし合わせながら、
 橋のあった場所を何ヶ所かみんなと歩いて回りました。
 道端に放置されている橋柱もあり、
 早急に保護が必要だなとも思いました。
 100年以上前から
 工場・長屋・店等が建ちはじめるも、
 まだまだ田園も広がり、
 井路川には小舟が行き来していたのだろうなと
 思い浮かべながら歩きました。  

以下、田野による書き込み。
調査の後半は、
「古地図と照らし合わせながら」の作業でした。
使用した地図はこれです。

写真図1 「鷺洲衛生組合管内地図」(昭和4年)
     大阪府立中之島図書館所蔵
     《聖天川の流れの顛末
      2014-03-03 11:17:30》アップ時認可済


地図中央上下(南北)に描かれている水路には、
名前の表記のない橋もありますが、北から
「大池ばし」「豊中橋」「鷺島ばし」「継橋」と
読図できます。

地図表記「大池ばし」橋柱の立つ風景はこれです。
写真図2  地図表記「大池ばし」橋柱の立つ風景

道路西側からの撮影です。
前回、示しましたように「大池橋」と刻まれています。
ここだけが、
元の場所と推定される所に
橋柱が現存します。

「工場・長屋・店等が建ちはじめる」中、
湮滅の危機を免れ
よくぞ保存されているものです。
近世から近代を語る物的証拠に乏しい
この地域にあって
貴重な文化遺産です。

「井路川には小舟が行き来していたのだろうな」と
この地からすれば、
「異境」である山口県宇部に育った澤田さんは
思いを馳せてます。

この地に大正12年に生まれた母からは、
残念ながら「小舟が行き来していた」とは
聞いていませんが、
この付近のドブ川には
タヌキが棲んでいたと聞かされています。
まさに「水道のタヌキ」です。
その場所は、
地図の「南登口橋」の架かっていた場所です。
写真図3 「南登口橋」の架かっていた場所の現在
       西方向からの撮影


前回アップの写真より
若干、西からの撮影です。
正面の高層ビルはホテル阪神、
やや左(北)背後に毎日新聞ビルです。

都心に程近いこの場所が
かつてドブ川の町と化したらしいです。
戦後生まれのボクは、それ以前の
鄙びた農村風景を想像します。
大大阪の時代の鷺洲の水路跡に
悲惨な場末の記録を綴る前に
いま少し田園風景を偲びたいのです。

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

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