『西淀川区勢』にみえる川北村(4) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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前回、外島保養院の拡張が
難航を極めたようと書きましたが、
きっと、そこには
施工主と地主、地元住民との間の
かけひきもあったのでしょう。

 

*『外島保養院2017』は
「『大阪朝日新聞』
(1931年11月18日)による」 として
次のように記述しています。
 *『外島保養院2017』
  :『大阪にあったハンセン病療養所-外島保養院』
  大阪市保健所感染症対策課
  「外島保養院の歴史をのこす会」
  2017年2月発行

 

◆・・・・小作人には代償、
 付近住民には迷惑金が
 交付されることになるとのことでした。
 4万坪の地主阿部彦太郎は
 協議買収を拒否したので
 土地収用法が適用されることになりました。

 

小作人すなわち布屋住民には、
代償金が支払われることになったのです。
例の阿部氏ですが、
『外島保養院2017』には、
「大阪市北区堂島浜通一丁目
阿部彦太郎」とも書かれている人物です。
堂島浜に事務所のあった
大阪屈指の地主だったのでしょう。

 

「昭和九年室戸台風前の中島町略図」では、
「阿部屋敷」が
左上(北東)に描かれています。
中島町の北東、神崎川に沿った
中島町のメインストリートに
位置します。
元の役場が隣接する場所で、
中島新田時代の管理事務所があった
場所と推察します。
写真図2 昭和九年室戸台風前の中島町略図
              川北小学校所蔵
        五社神社宮司 沼本湊氏作画

 

『外島保養院2017』には、
その後の進捗を次のように記述しています。
◆現地拡張工事として、
 1932(昭和7)年5月25日に
 4万坪の埋立工事がはじまりました。
 新敷地は沖の方から機械で海水と一緒に
 海底の土砂を吸い上げて来て
 地盛りの場所へ流し込み、
 水が切れると土砂が固まり、
 旧敷地より5尺(約1.5メートル)ほど高く
 地盛りされたと*『風と海のなか』にあります。
 埋め立て工事は3か月で完成し、
 ただちに増築にかかり、
 1934(昭和9)年末に収容定員は倍加して
 1000人になる運びとなっていました。
 *『風と海のなか』:邑久光明園入園者自治会著
  『風と海のなか-邑久光明園入園者八十年の歩み』
  日本文教出版、1989年

 

室戸台風が外島保養院に襲来するのは、
1934(昭和9)年9月21日、
午前7時50分のことです。
増築棟の完成を待たないまま、
惨事に見舞われます。

 

惨事の直後の
地主・阿部氏と地元住民の動向を
『風と海のなか』から拾い出しました。
次回に載せます。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員
大阪あそ歩公認ガイド 田野 登

 

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