大阪福島「野田城」の空間(3) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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「野田城」が如何なる施設であったかは、
全く定かではありません。
偉容を誇る白亜の平城でなかったことは確かです。

 

昭和初期刊行の*『第一西野田郷土誌』に
「野田城」の記事があります。
 *『第一西野田郷土誌』:乾市松著1935年
            大阪市第一西野田尋常高等小学校内
            教育後援会発行

◇今の玉川町三丁目の一部に
 旧字城の内と呼ばれてゐる所がある。
 又二丁目の字弓場等は其の跡であり、
 城の西南にある馬洗淵と呼ばれる溝洫は
 その当時の馬洗の場所であつたらう。
 城は*元亀元(1570)年三好衆が築いたものといはる。

 

「字城の内」「字弓場」「馬洗淵」など
今日の*藤論考が『第一西野田郷土誌』を
踏まえたものであることは明らかです。
   *藤論考:藤 三郎「野田城と戦国三好一族」
 『なにわ福島ものがたり』福島区歴史研究会、2012年初版

 

本ブログは「野田城」を端緒にして
大阪福島の野田地区の時空間を探ろうとしています。
「野田本郷」と「野田新家」を
水路により繋がっていたことを証明しようとしています。

 

『第一西野田郷土誌』刊行の昭和10年当時、
すでに前述の「1801エビス祭礼陳情書」に記述されている
「御船ニ而新家御渡有之候儀」

すなわち船渡御が不詳となっていました。

 

同書の「恵美須神社」の「渡御式」を引用します。
◇ 此の神事は、*天文2(1533)年当社
 兵火に罹りし際、村老纔に(わずかに)神璽を奉じて
 新家の地に奉遷せし由縁に依りて、
 古来新家を神幸地と称し渡御されたと伝へられてゐるが、
 徴証とすべき古記録が存じてゐないので
 之を詳にする事が出来ない。

 

この記事では、
新家を神幸地とする由来が
天文2(1533)年の兵火の際の
神璽の新家の地への奉遷に求めています。

写真図 現在の野田新家御旅所

同書には、
「大正15年御旅所新設」とあります。

 

また野田新家にあったとする
「明洲」について
次のように記述しています。
◇昔野田村新家にあつて、
 里伝によると
 豊臣秀吉が船寄場を新家町の西の浜に置いた時、
 朝鮮征伐《ママ》の軍兵凱旋して、
 一夜此所に明かし翌日威風堂々大阪城に引上げたので
 世人此所を明州《ママ》と名づけたといふ。

 

一夜を明かしたから「明洲」というのは
里伝であって
太閤伝説に過ぎないと
一笑に付す訳にはゆきません。
太閤の凱旋の伝説には、
戦時の出来事が影を落としているようです。

 

次回は慶長19(1614)年の大坂冬の陣における
野田新家の占める場所について
明らかにしようと思います。

 

究会代表

『大阪春秋』編集委員 田野 登

 

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