大阪福島「野田城」の空間(1) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


テーマ:

前回、

《『クチとオク―住まいの民俗学的研究の一視座―』を読む(4)》に
『なにわ福島ものがたり』(福島区歴史研究会、2012年初版)
藤 三郎「野田城と戦国三好一族」記事中に
「城之内」「奥」の小字名を表記する地図のことを挙げました。
写真図1 『なにわ福島ものがたり』表紙

その「明治19年の地図」を

藤 三郎氏からメールで送っていただきました。
写真図2 藤 三郎氏から送られてきた地図

この地図を大阪市立図書館デジタルアーカイブの古地図と
照合しましたところ
明治21(1888)年

「内務省大阪実測図」であることが判明しました。

 

そこで送られてきた地図を読図しました。
たしかに「字城之内」「字奥」等の
小字名が判読できます。

「野田城」はとなりますと、
この地図には反映されていません。
摂津の地誌中、
もっとも古く詳細をきわめた私撰地誌研究と
評される*『摂陽群談』には
「野田古城」の記事が見えます。
    *『摂陽群談』:蘆田伊人、編集校訂、1957年『摂陽群談』
    (大日本地誌大系38)雄山閣
          元禄14(1701)年岡田徯志編纂

 

◇野田古城:
 *同郡野田村にあり、細川氏綱在城、
 織田信長等の城郭なり。
 今俗、其古跡を指て城の内と云へり。
 当村極楽寺に於て、慶長の戦死、秀頼公吊之、
 報施の寄付状、于今伝来あえり。*同郡:西成郡

 

「今俗、其古跡を指て城の内と云へり」とあって
極楽寺が「城の内」を伝承していたと読み取られます。

 

寛政8(1796)年~寛政10(1798)年に刊行された
通俗地誌『摂津名所図会』には、
「今俗・・・云へり」の箇所を
「字を城の内といふ」と書き換えています。
万延元(1861)年以前の未刊本『摂津名所図会大成』には、
『摂津名所図会』の「字を城の内といふ」を
そのまま記述しています。

こららの小字名の記事により「野田城」の存在が
明らかになったのです。

 

この「字城之内」「字奥」を始め
「野田城」の周辺地域について
*藤 三郎「野田城と戦国三好一族」は詳しく
記述しています。
      *藤 三郎「野田城と戦国三好一族」
   :『なにわ福島ものがたり』福島区歴史研究会、2012年初版

付図《明治時代初期の地名と地形から推定される「野田城」》には
18箇所の地点を挙げています。
写真図3 
『なにわ福島ものがたり』付図

 「明治時代初期の地名と地形から推定される「野田城」」

そのうち小字名と一致するものには「*」を付けます。
( )には原図小字名の表記。
 

 ①*奥/②*城之内/③*北乃(ノ)口/④*堤
 ⑤*大北/⑥*大南/⑦*弓場/⑧*村東
 ⑨舟往還の通路/⑩井路川/⑪衛濠
 ⑫発掘調査地点/⑬(仮称)浦江口/⑭(仮称)福島口
 ⑮浦江城に通じる道(仮称)浦江街道
 ⑯堀城に通じる道(山田道)
 ⑰馬洗淵/⑱「野田城跡」の石碑

 

次回、ここに示された小字名①~⑧と
地方文書「享和元年蛭児之宮神祭取締リ請印形帳」記事中の

地名との照合から始めて
「野田城」を取り巻いたであろう
空間を探ることにします。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員 田野 登

 

田夫野人(田野 登)さんの読者になろう

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

Ameba人気のブログ

Amebaトピックス