島村恭則「都市民俗学の消長」の私的紹介(3) | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

本ブログは、前回に引き続き
2017年11月4日、上海で都市民俗学シンポジウムにおいて
島村恭則氏(関西学院大学社会学部教授)による
基調報告「都市民俗学の消長―日本の場合―」を
私的な関心から紹介するものです。

 

《4.内省型都市民俗学者の登場》の引用を続けます。
折口信夫についての記述からです。
◇その際、興味深いのは、こうした「都市民俗学」のモデルを、
 折口信夫の民俗学に求めている点である。
 折口は、柳田國男と並ぶ著名な民俗学者であるが、
 柳田が農村部出身の向都離村者であったのに対し、
 折口は、西日本の大都市大阪に生まれ育った根負いの都市人であった。

 

以下、田野による書き込み。
島村報告に「根負いの都市人」とありますが、
ボクは個人的には
折口アレルギーのようなものを
大阪市立大学の国語国文学科で
植え付けられておりました。
市大の国文の共同研究室には
『定本柳田国男集』はあろうとも
『折口信夫全集』は見当たりませんでした。
市大の先生方から
折口は実証性に乏しくみなされ、
謂わば折口全集は
「禁書」扱いされていたような気がします。

 

そのボクが学位請求をしたのは、
宮田登先生亡き後、
國學院大学で都市民俗学のパイオニアの倉石忠彦先生でした。

折口を
「大都市大阪に生まれ育った根負いの都市人」であると
認識しましたのは、
市大を卒業して20年後、
*『大阪のお地蔵さん』を1994年に北辰堂から
出版したときです。

 

この本の冒頭は次のとおりです。
◇大阪出身の国文学者・折口信夫は
 自らの故郷・大阪の暮らしを
 「野性を帯びた都会生活」と述べている。
 東京は、趣味の洗練・粋を誇り、
 三代住めば江戸っ子というのに対して
 大阪は、二代目、三代目で家が絶え、
 つねに新興の気分を持ち、洗練されない趣味を
 持ち続けているとも述べている。

 

*この折口の述懐は、
東北・山形出身で
直裁的な感情表現を歌に托した
斎藤茂吉への当てこすりなのですが、
折口自身、都会人たる自負を彼特有の韜晦を交えて
吐露しています。
  *この折口の述懐:「折口信夫 茂吉への返事 - 青空文庫」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/42238_14859.html

折口は同書に
「わたしは都會人です。
 併し、野性を深く遺傳してゐる大阪人であります」とも述べ、
暗に田舎人を揶揄しております。

 

島村報告に戻ります。
◇折口の民俗学の原点には、
 とりわけ都市住民としての
 芸能享受の経験が存在していると考えられ(*鈴木1991)、
 このことをふまえると、
 折口自身が、「内省型(都市)民俗学者」であったとする
 解釈を行うことも可能であろう。
  *鈴木満男 1991 :『柳田・折口以後』世界書院

 

以下、田野による書き込み。
ボク自身、2015年の日本民俗学会年会の見学会
「大阪の都市民俗」のガイドのため
折口信夫の家郷である木津村
(現在の大阪市浪速区敷津西)周辺を
歩いて調査するうちに
近代都市の周縁部に培われた折口の
特異な感性に気づくことになりました。

 

家郷から天王寺中学校(現在、大阪国際交流センターのある
天王寺区上本町八丁目)へ通う道すがらには、
芝居小屋の建つ千日前や
グレ宿のひしめく長町、
病を負った人々が身を寄せる四天王寺界隈など、
折口は都会の甘いも酸いも
オモテもウラも
熟知してしていたことでしょう。

森栗茂一の云う「ケガレ、差別」も
この辺のところから析出してきたような気が
今となってします。

 

《4.内省型都市民俗学者の登場》の続きは
次回にまわします。

 

究会代表
『大阪春秋』編集委員 田野 登