晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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室戸台風以前の中島町の絵地図が
大阪市立川北小学校の校長室に
掲げられています。

絵地図の布屋の右端(南端)に注目してください。

 

写真図 室戸台風以前の中島町界隈の絵地図

池があり、
大阪湾に突き出た海側に築山が描かれています。
「砲台のあと」と記されています。

新田の先端のこんな場所に砲台があるのです。

 

*『九十年のあゆみ』で確認しました。
 *『九十年のあゆみ』:
  本校明治45年卒業元此花区、生野区区長「おもいで」
  『九十年のあゆみ』大阪市立川北小学校、1963年発行
◇…運動会や体育祭などもこれとてもなく、
 時々布屋町にありました砲台跡に行って
 旗採りや走りなどがあっただけです。(中略)
  さきに申しました布屋町も砲台跡も
 今は地盤沈下のため海の中に沈んでしまいました。

 

砲台跡地で競技が行われていたのです。
別の原稿には「台場で運動会をした」ともあり、
「砲台跡地」を「台場」とも称していたのでしょう。

いったい、ここの台場は何時、何の目的で築かれたのでしょう?
『九十年のあゆみ』「校下の沿革」に次の記事があります。
◇用水路の巾は、中島町の上手より広く
 しかも整然と方眼の目のように作られていた。
 縦に7列、横に4条、海に面したところに大きな池が2つあり、
 これは日清戦争(*明治27(1894)年)頃に
 砲台構築のために掘ったものであろう。

 

絵地図では、一つの池が描かれていますが、
「校下の沿革」では、
「海に面したところに大きな池が2つあり」とあります。
これは*「布屋」1934(昭和9)年発行と照合したところ、
大小二つの池と読図します。
 *「布屋」『 1/1万 図歴地形図集』大阪人文出版センター

「校下の沿革」の記事の続きを載せます。
◇この砲台跡の高さは海抜5mあり、
 川北地域で最も高い所で草原より海を経て、
 大阪湾を一望できる遊園地となっていた。
 3月3日の節句には三々五々弁当をもって一日楽しく遊んだ。

 

台場は、野遊びの場所となっていたのです。
*柳田國男は、「歳時小記」に次の記述をしています。
 *柳田國男:柳田國男「歳時小記」1937年2月、

   『俳句研究』4巻2号、
  (
『定本柳田國男集』第13巻、1963年、筑摩書房) 
◇山磯遊び(三月三日)/三月三日の節供の日に、
 終日外に出て楽しく飲み食ひして遊ぶ風は、
 殆と全国の隅々まで行渡つて居る。
 東京の潮干狩などもその一つの変化といふに過ぎない。
 前年私は対馬の西北海岸づたひに、
 この盛んな磯遊びを見てあるいたが、
 女や子供が幾十組ともなく、
 手に手に重箱を下げてよい場所を見つけてあるく光景は、
 なごやかなものであつた。
 それから尋ねて見ると九州一帯から
 瀬戸内海あたりも同様で、
 磯が遠ければ海の見える丘の上、
 又は川の流れの辺りでも同じ遊びをする。

 

布屋の台場は、
瀬戸内海あたりで行われていた
「海の見える丘の上」での「三月三日の山磯遊び」と
通底する年中行事なのです。

 

ところで、台場・砲台は、
何時、何の目的で築かれたのでしょう?
「校下の沿革」の記事の続きを載せます。
◇砲台には日清戦争後、
 大阪の守りとして作られ大砲4門が設けられ、
 兵が駐屯していたが日清戦争が終わるや廃止されたという。

 

この件につきましては、
「台場研究」のための一事例を提供するにとどめます。
 日本民俗学会の発表まで1ヶ月を切りました。
夏に歩いた成果が秋に問われるのです。

 

究会代表 田野 登

 

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