前回「玉手御前のほっかぶり(3)」に
女人のこの扮装は
「やつしなり」と解釈され、
賤しいなりをすることを意味すると述べました。
さらに
頬被りするのを一人、玉手御前の
意匠としてではなく、
頬被りする集団として捉えました。
それが折口信夫の小説「身毒丸」に表象される
田楽法師の集団でした。
今回は
田楽法師集団の境涯について記します。
*小説「身毒丸」の冒頭を挙げます。
*小説「身毒丸」:「身毒丸」『折口信夫全集』第27巻、
1997年、中央公論社
●身毒丸の父親は、
住吉から出た田楽師であつた。
けれども、今は居ない。
身毒はをり/\
その父親に訣れた時の容子を思ひ浮べて見る。
身毒はその時九つであつた。
住吉の御田植神事の外は
旅まはりで一年中の生計を立てゝ行く
田楽法師の子どもは、
よた/\と一人あるきの出来出す頃から、
もう二里三里の遠出をさせられて、
九つの年には、父親らの一行と大和を越えて、
伊賀伊勢かけて、田植能の興行に伴はれた。
信吉法師というた彼の父は、
配下に十五六人の田楽法師を使うてゐた。
身毒丸は幼くして
旅回りに生計を立てる身として生まれました。
なぜ彼らの集団は一所に定住するのでなく
漂泊し続けるのでしょう。
中世から近世にかけての
旅芸人に対する「入村御法度」の掟が想像されます。
ボクは*1974年製作の映画「砂の器」の放浪の映像を思い出しました。
*映画「砂の器」:ウィキペディア「砂の器」
最終更新 2015年6月15日 (月) 11:58
この項の「エピソード」として、父子が放浪するシーンなどをめぐって、全国ハンセン氏病患者協議会と製作側が話し合った末、
「ハンセン氏病は、医学の進歩により特効薬もあり、現在では完全に回復し、社会復帰が続いている。それを拒むものは、まだ根強く残っている非科学的な偏見と差別のみであり、本浦千代吉のような患者はもうどこにもいない」という字幕を映画のラストに流すことを条件に、製作が続行されたと記されています。
本文に戻ります。
次の場面は、身毒から父・信吉法師が姿を消す
前夜の出来事です。
●その時五十を少し出てゐた父親の顔には、
二月ほど前から気味わるいむくみが来てゐた。
父親が姿を匿す前の晩に着いた、
奈良はづれの宿院の風呂の上り場で見た、
父の背を今でも覚えてゐる。
身毒が風呂の上り場で見た父の背とは
何だったのでしょう。
以下に紹介します原文には
ハンセン病に対する
科学的に正しくない記述が見えます。
●蝦蟇の肌のやうな、斑点が、
膨れた皮膚に隙間なく現れてゐた。
――とうちやんこれは何うしたの」と咎めた彼の顔を見て、
返事もしないで面を曇らしたまゝ、
急に着物をひつ被つた。
記憶を手繰つて行くと、
悲しいその夜に、父の語つた言葉がまた胸に浮ぶ。
引用文中の肌に斑点を発症するハンセン病は、
「癩菌によって起こる慢性の感染症(広辞苑第六版)」であって
完全に回復する疾病とボクは認識しています。
ところが、小説「身毒丸」ではどうでしょう。
次のように語られます。
●父及び身毒の身には、
先祖から持ち伝へた病気がある。
その為に父は得度して、
浄い生活をしようとしたのが、
ある女の為に堕ちて、
田舎聖の田楽法師の仲間に投じた。
語り手として想定される「身毒」には、
この疾病が遺伝性の病気であって
宿痾としての諦念にとらわれているのです。
この小説では「血筋」といった観念に
呪縛される個人「身毒」が表現されています。
●唯、からだを浄く保つことが、
父の罪滅しだといふ意味であつたか、
血縁の間にしふねく根を張つたこの病ひを、
一代きりにたやす所以だというたのか、
どちらへでも朧気な記憶は心のまゝに傾いた。
今回、覆面の集団、田楽法師の境涯を
取り上げました。
次回は、田楽法師といった門に立つ芸人を
折口はいかなる集団として
解釈しているか?といった
折口学の「マレビト」論をかいま見ることになります。
大阪民俗学研究会代表 田野 登