フィールドワークでの余興 | 晴耕雨読 -田野 登-

晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。

11月17日(日)午後、
大阪民俗学研究会は、京橋駅界隈の
フィールドワークに続き
「船玉」の伝承のその後を
探るため、大阪市港区の八幡屋、築港の
フィールドワークを実施しました。

実は、今回のフィールドは、
既に1987年12月『近畿民俗』第111号に
*「漂着した地蔵とその町内の人々-都市の民俗の発生と継承の一事例」
(以下、「漂着した地蔵」)に発表した場所だったのです。
「漂着した地蔵」は、後に『都市民俗基本論文集2』(岩田書院、2011年3月)に
再掲載されました。
再掲載された際、*論文紹介が記されております。
*論文紹介:内田忠賢2011年3月
 「都市・現代・民俗と生活変化」『都市と都市化』
 (都市民俗基本論文集2、岩田書院)19~20頁

    ↓ここをクリック

http://www.iwata-shoin.co.jp/bookdata/ISBN978-4-87294-678-9.htm


内田忠賢論文紹介では、
「大阪をフィールドに、
オーソドックスかつ地道な
民俗調査を長年続けている
田野登の都市民俗論である。
田野の立場は、
伝統的な民俗対象である地蔵をめぐり、
人々は「いかなる民俗を生み出し、
継承しているのであろうか」と明快である。」
とあります。


そうなんですね。
今回のフィールドは、戦後間もない昭和24(1949)年、
天保町の漁師たちが移住してきた場所であり、
地蔵をはじめ、龍王もエビスも「伝統的な民俗対象」であります。
だから調査の手法も、ことさら「都市民俗」振ったスタンスなど
必要としませんでした。


何よりも研究に有利だったのは
従来の日本民俗学による膨大な蓄積を
背負っている対象であったことです。

ただ、日本民俗学において
試みられていなかったのは、
このような戦後の造成地をフィールドにおいて
「民俗を生み出し、継承して」いく過程を
記録することだったのです。


発表以前、民俗研究者の多くは
昔から同じ場所で祀られ伝承されてきた地蔵などばかりに
目が行き、新開地に祀られている「伝統的な民俗対象」に
見向きもしなかったのです。


さて、そのようなフィールドに対し
若い研究者は、いかなる興味を示したのでしょうか?

前回の当ブログでは「港住吉神社御旅所のこと」に
八幡屋地区の歴史と現在の景観を取り上げました。
その際に予告しておりました
濱田時実会員からのレポートの全文を載せます。
改行は、田野がしました。


今回のフィールドワークは
池島や八幡屋を経由し、
港住吉神社を目指したものです。
当該地域はかつて漁業を生業とした地域であり、
その面影は現在も残っています。
私自身、これまでの主たるフィールドは

農村部であったため、
漁村(という表現が正しいかは疑問に残るが)における
フィールドワークをしたことで、
ムラの景観をはじめ

全てにおいて目に映るものが新鮮でした。
八幡屋では漁協関係者が
エビスさんを信仰していますが、
現在は廃れてもかつての生業と信仰が
今も密接に関連していると
指摘できるのではないでしょうか。
フィールドワークを通して
再認識できたこととして、
地域住民とのコミュニケーションの取り方の重要性を挙げます。
つまり、八幡屋では漁業が廃れたからといって、
かつての景観などが地域住民の記憶から
完全に消え去ることはなく、
聞き手が会話の中で固有名詞を出したり、
かつて撮影した写真を見せることで
次々に記憶が蘇ってきていました。
聞き書き調査が必要不可欠となる民俗学では、
話者の存在は必須であり、
聞き手側の聞き方一つで得られる成果は大きく異なります。
得られたデータにおいても
地域の特性を考慮しなければなりません。
時代背景、生活背景、地域固有の歴史がデータに
どのような影響を与えているのかを
意識しておかなければ、
研究のさらなる深みは増さないでしょう。
これらのことを改めて
自分に言い聞かせ、
益々精進したいと思います。
          佛教大学研究員 濱田時実


以下、田野からコメントします。
濱田レポートは
「地域住民とのコミュニケーションの取り方の重要性」を
挙げています。
ともかくフィールドワークの醍醐味の一端を
体験できたことを共に喜びたいと思います。


民俗学では多くの場合、
地域住民がインフォーマントとなります。
彼女ら彼らとの対話が
文字化されて「資料」となります。

今回は26年前に論文を書いたフィールドでしたので
当時の調査で得たデータを活かせました。
町内の方のお名前が固有名詞で
対話の中で、ポンポン出てくるのです。

それもボクの知っている名前がなんです。


濱田会員のように神事・祭礼を参与観察している場合、
一緒に酒を飲まれることもありましょう。
ボクの場合、地蔵盆に訪ね、一緒に踊って
ビールをいただきながら、踊り見物をします。
世間話をします。
そのような雰囲気のもと、
漁師たちの自慢話が聞けたり、
時には手取り足取りで、伝承されてきた腕前を
教わったりします。
「先生、鈍くさいなぁ」と笑われたりしながら、
親しくなってゆきます。


大正区でウチナーンチュ(沖縄ひと)の老婦人から
ウチナークチ(沖縄ことば)を教わったときなど
発音ができなくて、何度も「矯正」されました。
彼女ら彼らにとおいては、ヤマトゥンチュ(大和びと)は
「異文化人」であり、
自分たちの世界に興味を示すボクには好意的に
対応してくださいました。


その体験と八幡屋の漁師たちとの間も

同じことがいえます。
壺網での魚の捕り方など、
かつての漁師の奥方から
「ここをキュッと締めて、こうして・・・」など
身振り手振りで説明なさいます。
漁師の子供でもないボクには、言われて初めて
ああなるほどなんです。


今回は、港住吉神社の枕太鼓を曳く時の唄は
思わぬ収穫でした。

写真図 港住吉神社の枕太鼓(港住吉神社所蔵)


晴耕雨読 -田野 登-


宮総代会の方から聞いた多少、

卑猥な歌詞などは
興に乗られてのまさに余興です。

付録としてその歌詞を載せておきます。


港住吉神社太鼓台唄
調査地:港区八幡屋4丁目港住吉神社御旅所
調査日:2013年11月17日
話者:港住吉神社総代会常任総代:昭和26年生

〽行こか戻ろか住吉の:①
 住吉浜辺の高燈籠:②
 登ってオカを眺むれば:③
 七福神の楽遊び:④
 そこにはエベッさんという人が:⑤
 金と銀との釣り竿で:⑥
 釣ったおかげで嬶もろて:⑦
 もろた嬶はかわらけで:⑧
 かわらけ同士が喧嘩して:⑨
 どちらもけが無うてええじゃないか:⑩ 


昭和48(1973)年頃以前まで唄われていたが、
現在は⑦を「釣ったおかげで蔵建てて」と変わり
⑧~⑩も変わっている。


読者の方で、この歌詞のヴァージョンが
ございましたら、お知らせ下さい。


究会代表 田野 登