晴耕雨読 -田野 登-

大阪のマチを歩いてて、空を見上げる。モクモク沸き立つ雲。
そんなとき、空の片隅にみつけた高い空。透けた雲、そっと走る風。
ふとよぎる何かの予感。内なる小宇宙から外なる広い世界に向けて。


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前回、大阪市立佃小学校の校歌の
歌詞の一部に漢字を宛てました。
◇佃小学校校歌
一、一路坦々との如き 新国道を さしはさむ
   大大阪の 西玄関 これぞ わが住む佃の地
二、神崎川の 水深く 田蓑の森の神さびし
   畔に建ちて 年あまた これぞ われらが佃校
三、起てよ 佃の学び子ら 磨けよまこと 人の道
   強く 雄々しく いや直く 大大阪の 映えのため

 

前回、歌詞中の「新国道」を手がかりに
作詞の時の上限を大正9(1920)年から同15(1926)年の
大正末期と推定しました。

 

今回は、制定の下限の時を定めるべく、
この時代の学校の沿革を*『つくだ』から拾いました。
  *『つくだ』:『つくだ』大阪市立佃小学校編集、1964年

 

①大正8年
2月 創立記念日に新校舎落成式を行う

   (佃町98番地代表)
   改築移転記念展覧会を開催したり
*「現在地に校舎を移転建築」:
「大阪市立佃小学校-大阪市教育委員会」HP
swa.city-osaka.ed.jp/swas/index.php?id=e631367
②大正13年/4月 造築校舎竣工式を挙行す(中略)
(補足:大正15年 11月 阪神国道開通)(中略)
③昭和8年 12月 開校60周年祝賀会を開催す
④昭和9年 2月 創立60周年記念式を兼ねて
  講堂落成式を挙行する

 

校歌が制定されるのは
学校にとっての慶事と考えて
校舎の落成、竣工、開校・創立記念行事を挙げました。
下限の時は

④昭和9年 2月 創立60周年記念式でしょうか?
ときあたかも「大大阪」が称揚された時代のことです。

それとても現在地に新校舎落成式が挙行された
大正8(1919)年2月から35年、一世代しか経ていません。

 

それであっても
校歌二番に
「年あまた これぞ われらが佃校」と
慕わしく謳われたのでしょう。

 

ところが皮肉なもので
『つくだ』の「昭和12年」に次の記事があります。
◇昭和12年 7月 バラック仮校舎建築着手
        8月 バラック仮校舎完成

 

創立60周年記念式に兼ねて
昭和9年2月の半年後、何が起きたのでしょう。
『つくだ』に記事が見当たりませんでしたので、
*ウィキペディア「大阪市立佃小学校」に次の記事があります。
*ウィキペディア…:ja.wikipedia.org/wiki/大阪市立佃小学校
最終更新 2016年6月13日 (月) 04:18

◇1934年(昭和9年) - 室戸台風で校舎全壊。

 

短命に終わった校舎でありながら
今なお、歌い継がれる大大阪時代に作詞された
佃の校歌の世界を
いま少し探索してみたいと思います。
次回は「田蓑の森」に立ち寄ることにします。

 

究会代表   田野 登

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2017年7月25日追記

以下の記事に間違いがあることに

気づきました。

 佃小学校校歌の歌詞についての訂正》を

ご参照下さい。

   ↓ここをクリック

http://ameblo.jp/tanonoboru/entry-12295795140.html

 

「田蓑の森」を歌詞に謳う校歌があります。
「一路たんたん とのごとし」で歌い始める
大阪市立佃小学校(西淀川区佃1)の*校歌です。
  *校歌:『竣工・開校130周年記念誌 佃』2003年、
    大阪市立佃小学校竣工・開校130周年記念事業運営委員会
    「はじめに」

 

◇佃小学校校歌
一、一路たんたん とのごとき 新国道を さしはさむ
     大大阪の 西玄関 これぞ わがすむ佃の地
二、神崎川の 水深く 田蓑の森の神さびし
    ほとりにたちて 年あまた これぞ われらが佃校
三、たてよ 佃の学び子ら 磨けよまこと 人の道
    強く おおしく いやなおく 大大阪の はえのため

 

2番に「田蓑の森の神さびし」とあります。
何も、田蓑の森が寂しい森だった訳ではありません。
漢字を宛てて書き改めました。

◇佃小学校校歌
一、一路坦々との如き 新国道を さしはさむ
      大大阪の 西玄関 これぞ わが住む佃の地
二、神崎川の 水深く 田蓑の森の神さびし
      畔に建ちて 年あまた これぞ われらが佃校
三、起てよ 佃の学び子ら 磨けよまこと 人の道
     強く 雄々しく いや直く 大大阪の 映えのため

 

いつ作曲されたのかを学校に問い合わせましたが、
「新国道」「大大阪」が鍵ですねということで
わかりませんでした。

 

「新国道」を『西淀川区史』1996年、大阪都市協会に
当たりました。

◇阪神国道(国道二号)は福島区上福島を起点に、
   淀川を渡り、当区中央部を北に貫いて

   左門殿川(市界)を越えて
   尼崎市に入り西進、神戸市岩屋に至る
   幅15間(27㍍)・総延長28キロメートルに及ぶ国道である。

 

「新国道」は阪神国道(国道二号)です。
それでは、古い道はいかがでしょう。
続きを記します。


◇それまでの大和田街道は、
  「西の道」とも呼ばれた

  都市間幹線道路として機能していたが、
  幅員は
ようやく荷馬車がすれ違うことのできるほどであり、
  産業活動が著しい発達を見せる阪神間にあっては、
  国道新設が不可欠とあって、・・・・

 

大阪市が平成13(2001)年に設置した案内板が
福島区、西淀川区の各所にある
「大和田街道・梅田街道」が旧道だったのです。

阪神国道はいつ出来たのか?
それによって校歌の詞の上限が定まります。
◇…大正8年に大阪府・兵庫県が協力して建設することを決定、
  9年に着工、15年11月に竣工した。
  当区内は、この国道をもって、
  初めて近代的な市街地が開ける基礎を得た。

 

大正9(1920)年着工、同15(1926)年11月竣工とあります。
上限は大正末期です。
「近代的な市街地が開ける基礎を得た」
その頃、学校に何があったのでしょう。
どうやら、佃小学校の校歌の一番は、
作詞された当時の「近代的な市街地」を讃えているようです。

 

さぁ、学校記念誌に当たります。
「田蓑の森」の探索は、下限を推定してからにします。

 

究会代表   田野 登

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「蟹胥」という食物は
幕末の浪花の名物にも載る品物であったようです。
*天保改正『国花万葉記』の「浪花名物寄」に
記載されています。
*天保改正『国花万葉記』:
天保6年版『国花万葉記』巻第5之3
一名『摂州名所難波丸』

 

そこには
「蟹胥 まへだれしま」と見えます。
「田蓑の島」を調べていて「まへだれしま」とは?
天保改正『国花万葉記』のこの情報は、
すでに『五畿内志』(*『摂津志』)にも見えます。
*『摂津志』:『覆刻 日本古典全集 五畿内志下』1978年、現代思潮社
                  『日本輿地通志 畿内部摂津国』
                 享保乙卯冬新鐫 浪華書舗文海堂寿桜

 

「享保乙卯」は 享保20(1735)年のことです。
『摂津志』《西成郡【土産】製造》の記事は次のとおりです。

◇蟹胥(カニヒシコ)
《半角割注:前垂島

               元慶三年正月勅摂津国蟹胥莫以為贄奉膳》

 

天保改正『国花万葉記』の「まへだれしま」は

「前垂島」です。

 

ところで、

歌枕「田蓑の島」の「かざめ」の詠まれた「津守国基集」の歌は
次のとおりでした。
◇五月雨にたみののしまのあま人の
 かづくかざめは君がためなり

 

「かざめ」は「田蓑の島」の海人が潜ってかどうか知りませんが
獲ってきた蟹でした。
そうとなれば「田蓑の島」は、もしかしたら
「前垂島」でしょうか?

 

『摂津志』と、ほぼ同時代に記された大阪の地誌である
*『摂陽群談』にも「前垂島」の記事が
「巻第五島の部」に見えます。
◇前垂(マヘダレ)島:
 西成郡道頓堀の川下にあり。
 下女・端女等の腰布を、世に前垂と云。
 此所、川尻にして海に近し、
 南北に横て、潮水の溢を防。

 因て前垂布に譬之。

 

「前垂島」は木津川左岸(東岸)に沿って
まるで防潮堤のような南北に延びた島だったのでしょう。

「前垂島蟹胥」の記事は『摂陽群談』にもあります。
 「巻第十六 名物土産の部」から拾います。
◇前垂島蟹胥/同郡大坂道頓堀の西にあり。
 前垂島は、今の地名也。
 此島辺の蟹、蟹穴を出て水に遊ぶ。
 漁者蘆の葉に陰て伺時、竹箒を以つて、
 数百の穴を掃塞で捕之、即浸盬鯷(ヒシコ)とす。
 多く百姓の家に求て、田植の時菜物とす。

 

かなり捕獲方法も具体的です。
ズワイガニ文化研究に詳しい広尾克子さんから
「阪俗研便り」第96号(通号219号、2017/02/23配信)に
投稿していただいた記事を援用します。
◇・・・・私も延喜式の擁釼(カサメ)は、
 どういう形で納められたのだろうと
 気になっていました。
 万葉集に登場する葦蟹は最後に塩漬けにされて
 食べられるので、やはり塩辛みたいなものかなと。…

 

「前垂島蟹胥」の記事の問題点は、

むしろ古代にあっても
近世記事にある中州でカザメを捕獲していたか否かです。
『摂陽群談』の続きは次のとおりです。

 

◇往古為贄の蟹胥(カニヒシコ)、当国にあり、
 其所出方角不詳、
 蟹の漬物は、其に伝る歟。
 〔三代実録〕巻三十五曰、元慶三年正月三日癸巳、
 【勅摂津国蟹胥、陸奥国鹿腊、莫以為贄奉膳、云々】、

 

平安時代に贄として献げられた「摂津国蟹胥」の
捕獲地を『摂陽群談』は「其所出方角不詳」と記しています。
江海に臨むシマの地形は変化するものでしょう。

「蟹胥」が古代の「カザメ」との関連がみとめられても、
「前垂島」を「田蓑の島」に比定するのは無理なようです。

 

今回も、並河誠所編纂の『摂津志』(『五畿内志』)記事を
批判的に引用しました。
翻って、『摂津志』の「宅美野島(タミ-)」を
読み返す段にさしかかりました。

 

究会代表   田野 登

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今度の浦江塾は
『大阪春秋』編集委員でもある
摂河泉地域文化研究所理事の
小林義孝氏にお願いしましたところ、
テーマは
なんと「大阪湾に沈む夕日を想う
―河内往生院と四天王寺」でした。

 

まぁ、ボクも、この曹洞宗のお寺で
日想観の話をしたものですが・・・・
住職からの案内のハガキをいただきました。
写真図 浦江塾案内のハガキ

文面は以下のとおりです。
郷土誌を見直す『浦江塾』のご案内
かつて人々は茅渟の海に沈みゆく夕日を見て極楽往生の
世界を想起し日想観に浸ったものと考えられます。
四天王寺と真東にある河内往生院は、まさに往生の世界
であり、当時の人々は死に対しもっと夢ある黄泉の国
を想像していたのではないでしょうか。
日時 3月4日(土曜日)午後7時より9時迄
場所 妙壽寺(福島区鷺洲2-15-10)駐車可
テーマ 「大阪湾に沈む夕日を想う―河内往生院と四天王寺」
              摂河泉地域文化研究所理事
          小林義孝先生

 

 

ロマンチックな住職の文章です。
昨今、少子高齢社会に立ち至り、
生老病死、とりわけ「死」をめぐる
議論は避けては通れない問題かもしれません。
宗旨を越えて、
知見を交換し、情報を共有し合い、
おのおのの認識を深めたいものです。

行き着く先が
「極楽」であれ、「黄泉の国」であれ
「冥土」であれ「常世」であれ、
「あの世」であれ「彼岸」であれ、
いずれ、誰もが、この世から避けがたくも
去って行く身です。

 

今回、取り上げられるのは、
大阪湾に向かっての東西軸で結ばれた
河内往生院と四天王寺です。
小林義孝氏は埋蔵文化、とりわけ
葬送考古学、葬送儀礼に造詣が深い方です。
どこまで脱線なさるのかが、楽しみです。

 

海に沈む夕日を
お話しなさるに当たって
リクエストが一つあります。

考古学者である
小林義孝氏によるお話が
浦江、海老江、野田、福島に及んで
まさか「海の底」だったでないでしょうね。
そのことだけお願いします。

 

なお、『大阪春秋』の春号は
「大阪と夕陽」の特集です。
編集主幹の長山公一氏からいただいたメールを
断った上で載せます。
◇大阪は夕陽の美しいまちです。
  夕陽信仰(日想観)から観光スポット紹介まで、
  古代から現代までの大阪と夕陽の関わりを探ります。

 

小林義孝氏によるお話も
じつは『大阪春秋』の春号の副産物なのです。
『大阪春秋』ともども浦江塾もよろしくお願いします。
参加費無料、手続き不要。
来る人は拒まずの
いつもの浦江塾です。

 

究会代表   田野 登

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名誉宮司さんに尋ねてみて
ボクの見たこともない戦前の浦江の風景を
想像しました。


「昔は川では田舟で
大根などを運び安治川まで出た」とのこと。
浦江村は
井路川がめぐる、かつての農村だったのでしょう。

懸案の田蓑の島について
ボクからは、
いつもの近世地図の井路川に囲まれた
「古田蓑島」の場所を
地図もなしで話しました。
写真図1 朝日放送玄関脇の地図
           改正増補国寶大阪全図 文久三(1863)年


地図では上方が北で「ギオン」が浦江八坂神社

「どうも「古田蓑島」の南の縁は、わかるのですが、
北の縁がわかりにくくて」と差し向けました。

 

昭和5年生まれの名誉宮司さんからは、
戦前の風景が話されました。
「大阪道(オオサカドウ)が今の浦江公園の北を東西に通っていて
大阪道に沿って道標が立てられていた」とのこと。
「大阪道」については、
1925年『鷺洲町史』にも記されているとのことです。

ご幼少の頃の神社周辺について
「本殿の裏の学校(金蘭女子)との間に
川があって松並木があった」とのこと。
「松並木」とは初耳です。

 

「「松」といえば、昔の海岸線でしょうか?」と
ことさら誘いかけました。

大昔の海岸線に話が及びました。
「大阪道は西に続き、野々宮跡の所から北に曲がる。
それが昔の海岸線だったのでは?」とのことです。

 

さらに
「昔は海老江も野田も海だった」となれば
当然、浦江は海岸線に沿った島かなとも
想像してしまいます。

それにしても
斎宮御祓の場所の伝承地になぜ、
素戔嗚尊・祇園が祀られているとはと思ってましたが、
名誉宮司からは次の話を聴きました。

 

「現在、周辺にはスサノオを祀る神社が多くあるが、
織田信長の頃までは、そうでなかった」とのこと。

もともとは、斎宮(サイグウ)を祀る神社であったとのことで
相殿の野々宮は斎宮を祀る所ならどこにでもあるとのことです。

写真図2  字江川から遷祀された野々宮社

       左(東)に斎宮社が見える。

 

ところが、その話の先に
次のことを聴きました。
「この神社の場所は大阪に都があった時代、
西北に当たる」とのこと。

もう、話について行けません。

 

斎宮の御祓の八十島祭りを
はたして難波宮の時代にまで
溯ることができるのでしょうか?

たしかに「田蓑ノ嶋」が描かれている
『鷺洲町史』所載の「難波古図」の
右上囲い込みには「神武帝ヨリ応神帝マデノ地図」と
記されています。

 

本ブログでは
先に《近世の「田蓑島」浦江説》(1)~(4)
《近世絵地図の「田蓑島」》(1)~(2)において
往古図といった、時を隔てた時代に描かれた想像図の
陥穽を重ねて取り上げました。

 

今回、浦江八坂神社を訪ね
改めて近世の「田蓑島」浦江説の危うさに
気づくことになりました。

 

究会代表 田野 登

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