南京事件 1927年 | 戦車のブログ

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南京事件は、1927年(昭和2年)3月24日、北伐の途上において、蒋介石の国民革命軍の第2軍と第6軍を主力とする江右軍(総指揮・程潜)が南京を占領した際に起こした、日本を含む外国領事館と居留民に対する襲撃事件。

 

その後の中国の進路や日本の対中政策を大きく変えることになった。

 

 

1919年、第一次世界大戦後、五四運動発生。

 

1924年、第一次国共合作。

 

1926年3月20日、中山艦事件

 

1926年7月1日、蒋介石が北伐宣言で北伐開始。

 

 

蒋介石・国民革命軍

1927年3月21日、蒋介石の国民革命軍は上海を占領し、南京攻略を目指して3月23日に南京城を包囲した。

 

 

張宗昌・直魯連合軍

張宗昌ら直魯連合軍8万は戦わずに退却し、市民も逃げ惑い、南京城内は混乱した。

 

 

南京在留日本

3月22日朝、日本海軍は荒木亀男大尉指揮下の海軍陸戦隊10人を機関銃一門、無線電信機、小銃などを携えて上陸させた。

 

 

しかし、自動車で南京城に入ろうとすると儀鳳門で張宗昌ら直魯連合軍は、蒋介石軍を援助する疑いがあるとして小銃など武器を押収した。

 

機関銃一門、無線電信機は先発の自動車で運んでいたので押収はされなかった。

 

荒木大尉は抗議したが受け入れられず、儀鳳門に翌朝まで抑留された。

 

 

南京在留日本側は、掠奪暴行が予想されたので3月22日に婦女子を領事館に避難させ、23日午後8時までに領事館舎15人、本館に38人、警察官舎に20人、書記生室に19人、署長官舎に10人を収容した。

 

 

1927年(昭和2年)3月24日早朝、国民軍総司令蒋介石の北伐軍が南京に入城した。

 

その軍長は程潜であった。

 

 

当初は平和裏に入城していたが、まもなく、反帝国主義を叫ぶ軍人や民衆の一部が外国の領事館や居留地などを襲撃して暴行・掠奪・破壊などを行い、日本1人(後述の宿泊船警備の海軍兵)、イギリス3人、アメリカ合衆国1人、イタリア1人、デンマーク1人の死者、2人の行方不明者が出た。

 

 

フランス人宣教師が2名殺害された。

 

アメリカ人で金陵大学副校長イーゼーウィリアム博士も殺害された。

 

そのうち一人は頭髪からヒゲ、陰毛まで焼かれ、大腿部を切断された。

 

また婦人も陵辱された。

 

 

日本領事館は蒋介石の軍が入城したとき、国民党軍は規律正しいと聞いていたので安心し、防衛のための土嚢や機関銃を撤去し、開門して国民党軍を受け入れた。

 

また、倉庫には小銃30挺が保管されていたが、それらの上に荷物を山積みしており、準備されてはいなかった。

 

当時の記録では、この時入場した国民党軍は、便衣隊であったかもしれないとも書いている。

 

 

中国軍一個中隊が正門から闖入すると、歩哨に立っていた西原二等兵曹に銃剣を突き付け、殴りつけられた。

 

中国軍は「やっつけろ、やっつけろ」と連呼しながら銃剣で突きまくり顔面や頭部をめった打ちにして負傷させた。

 

 

救援にかけつけた数名の海軍陸戦隊員も銃剣を突き付けられ、時計や財布を掠奪された。

 

 

その後中国軍は、本館を襲撃して電話機や器物を破壊し、金庫を開けろと木村領事館警察署長に命じたが、署長が応じなかったので発砲し、署長は右腕を負傷した。

 

 

その後中国軍は、本館を襲撃して電話機や器物を破壊し、金庫を開けろと木村領事館警察署長に命じたが、署長が応じなかったので発砲し、署長は右腕を負傷した。

 

 

 

領事館舎の2階にいた根本博陸軍武官(少佐)に対して、中国兵は室内に入るや否や頭をめがけて発砲したが、それた。

 

しかし腹を撃たれ、1階に飛び降りようとしたところ臀部を銃剣で突き刺され、突き落とされた。

 

室内に残っていた領事夫妻らに向かって中国兵は「金を出せ」「金庫を開けろ」「出さねば殺すぞ」と罵りながら、所持品を奪い、領事夫人は服を脱がされた。

 

寝室の領事専用金庫は破壊され、貴重品はすべて持ち去られた。

 

さらに中国兵に後続して、南京の老若男女の住民、苦力らが押し寄せ、電球、電線、装飾器具、炊事道具、風呂桶、便器まで持ち去った。

 

日本人は衣服を脱がされ、それらの衣服も持ち去られた。

 

強奪は朝7時から午後1時すぎまで打ち通しに行われた。

 

 

その後、第2軍政治部蒋勁、師長戴岱がやってきて「我が国民軍は外国人に危害は加えない。今日、諸君を苦しめたのは確かに北軍の所為である」と述べた。

 

 

荒木大尉は反撃すると日本人避難民に危険が及ぶため、海軍陸戦隊員に無抵抗を命じていたため、館内の日本人は一方的に暴行や掠奪を受けた。

 

 

日本側の報道によると、駆逐艦「檜」などから派遣されていた領事館警備の陸戦隊の兵力は10人しかなく、抵抗すれば尼港事件のような民間人殺害を誘発する危険があると考えられたため、無抵抗が徹底されたという。

 

 

領事館への襲撃のほか、係留中の宿泊船(ハルク)の警備についていた後藤三等機関兵曹は狙撃により射殺された。

 

 

また、日本人の経営する旅館寶来館を襲撃した中国人暴徒は「金を出せ」「奉天兵はいないか」「ピストルはないか」と連呼し、旅館にいた日本人から財布や骨董品を強奪していった。

 

宿の女中がつけていた指輪がとれないので、「面倒だ、指を切り落とせ」と中国人がいうので外して渡した。

 

 

中国人暴徒は「張作霖びいきの日本人は皆殺しだ。もう50人殺された」と喚きながら、発砲した。(東京朝日園田記者の証言、東京朝日1927年3月30日)

 

 

松崎病院院長の松崎熊士は、事件の最中に中国人が「(外国人が)虐殺されるのは当然だ。日本領事館で鼻に針金を差し込んで、一人残らず殺した」と話しているのを聞いた。

 

 

事件後の被害者の証言によれば、当時の30数名の婦女は少女にいたるまで陵辱され、ある女性が暴兵のために一室に連れて行かれようとする際、「どうぞ助けてください」と必死に叫んだが、警備兵は抵抗できず、見捨てざるを得なかったという。

 

 

 

3月25日、下関に停泊中のアメリカ軍とイギリス軍の艦艇は午後3時40分頃より城内に艦砲射撃を開始、陸戦隊を上陸させて居留民の保護を図った。

 

砲弾は1時間余りで約200発が撃ち込まれ、日本領事館近傍にも着弾した。

 

多数の中国の軍民が砲撃で死傷したとされている。

 

 

 

3月29日、蒋介石は、九江より上海に来て、暴行兵を処罰すること、上海の治安を確保すること、排外主義を目的としないことなどの内容を声明で発表した。

 

しかし、日英米仏伊五カ国の公使が関係指揮官及び兵士の厳罰、蒋介石の文書による謝罪、外国人の生命財産に対する保障、人的物的被害の賠償を共同して要求したところ、外交部長・陳友仁は責任の一部が不平等条約の存在にあるとし、紛糾した。