第十一代海上幕僚長 中村悌次海将 | 戦車のブログ

戦車のブログ

戦車のことなど書いてます。
アメンバー・メッセージ、ペタは受け付けていませんので御了承下さい。
ブログの内容・文章・画像を許可無く無断転載を禁じます。
悪質な場合は著作権侵害となりますのでご注意下さい。



7月23日は元海軍軍人にして海上自衛官第11代海上幕僚長の中村悌次海将の命日です。


中村 悌次(なかむら ていじ 、1919年(大正8年)9月24日 - 2010年(平成22年)7月23日)は、日本の海軍軍人、海上自衛官。海軍兵学校卒業(第67期)。第11代海上幕僚長。京都府出身。


1980年代以降の海上自衛隊とアメリカ海軍の緊密な関係を作り上げた海上自衛隊中興の祖の一人。

海軍兵学校を首席で卒業し、海軍時代は下級将校として第一線勤務が続く。

駆逐艦「夕立」の水雷長として第三次ソロモン海戦に参加。終戦間際には本土決戦に備え千葉県にて突撃隊特攻長で終戦を迎える。

終戦直後は旧海軍物資の払い下げ販売の会社に就職するもなじめず、妻の縁故で経理の仕事をする。

その後、家族の反対を押し切って海上警備隊に入隊する。

海上勤務を希望していたが兵学校首席を放っておくほど人材に余裕がある訳でもない時期であり、幕僚監部等いわゆる中央での勤務が多く、行政や予算要求の資料作成などに携わる。

仕事熱心で論旨的思考をする人物として知られ、常に向学心にあふれ部下にも自分自身にも厳しく、中村と対面し報告を行う部下は緊張したという。

また、海上幕僚長就任中、日本各地にある海上自衛隊の施設訪問を実施した際は、副官の冨田成昭海将一人だけを連れて過密なスケジュールで行脚した。

特に壱岐警備所訪問の際はヘリコプターが着陸できなかったためロープで地上に降り立ったエピソードもある。退官後は、後輩に迷惑をかけてはいけないと考え、防衛関連企業への天下りはしなかった。

以下ウィキペディアより転載

略歴
1939年(昭和14年)7月:海軍兵学校卒業(第67期首席)

1940年(昭和15年):「高雄」乗組

1941年(昭和16年)8月:「夕立」乗組

1942年(昭和17年)2月:バリ島沖海戦に参加

11月:第三次ソロモン海戦に参加、水雷長として魚雷発射の指揮を執る1943年(昭和18年)1月:「長門」乗組、分隊長


6月:海軍兵学校教官兼監事1945年(昭和20年):大尉で終戦を迎える。大阪警備府副官ののち第二復員局
1952年(昭和27年)6月:海上警備隊に入隊

1954年(昭和29年):第2船隊群幕僚、統合幕僚会議事務局勤務

1960年(昭和35年):アメリカ海軍大学校に留学

1968年(昭和43年)4月:第1潜水隊群司令

1968年(昭和43年)12月:海上幕僚監部防衛部副部長

1969年(昭和44年)7月:統合幕僚会議事務局第5幕僚室長

1971年(昭和46年)1月:海上幕僚監部防衛部長

1972年(昭和47年)3月:第10代護衛艦隊司令官に就任

1973年(昭和48年)12月:第12代呉地方総監に就任

1974年(昭和49年)7月:第12代自衛艦隊司令官に就任

1976年(昭和51年)3月:第11代海上幕僚長に就任


1977年(昭和52年)9月:退官

1990年(平成2年)11月:勲二等瑞宝章

2010年(平成22年)7月23日:心不全のため死去(享年90)。正七位から正四位に昇叙せられる