知られざる戦史1 伊祖高地の夜間戦闘 | 戦車のブログ

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戦史には大きく残るものと、ほとんど知られることがない戦史がある。
そんな知られざる戦史を発掘したいと思う。


昭和20年4月1日朝、アメリカ軍は、守備の薄い本島中西部で、陸軍の第7・第96歩兵師団と第1・第6海兵師団による上陸を開始した。

沖縄戦は多くの住民を巻き込みつつ戦闘が続いた。

今回は昭和20年4月20と21日「伊祖高地の夜間戦闘」を紹介する。


以下戦史叢書(朝雲新聞公刊戦史)より抜粋し転載

西海岸正面の米軍は20日朝から兵力を増強し、伊祖北側から南西方に向かって猛攻してきた。伊祖部落西方地区に侵入した米軍2個中隊を伊祖付近の所在部隊(独立旧砲第1連隊本部等)は、独立歩兵第21大隊と協同し、迫撃砲の支援を得て包囲攻撃して潰走させた。

 しかし伊祖、城間には逐次米軍が侵入し、西海岸道方面は憂慮すべき状態となった。第62師団長は20日更に第64旅団長に対し陣地奪回を厳命した。

 歩兵第64旅団長は使用すべき予備兵力がなかったため、独立歩兵第15大隊(城間西方に陣地配備)主力を抽出し、独立歩兵第21大隊と共に20日夜奪回攻撃を実施した。
(戦史叢書)

以下独立歩兵第15大隊第4中隊第1小隊長山本義中少尉の手記より抜粋し転載

4月20日 
 午後7時30分、独立歩兵第15大隊長飯塚少佐は、各中隊長と中隊付先任将校を集合させ、夜間攻撃を命令した。夜間攻撃要領、敵情、第一線日本軍の戦闘配備について細かく指示があった。
特に戦闘状態に入った場合には、敵と密着したままの戦闘を維持し、絶対に砲爆撃の目標となるな。戦死傷者の収容は禁止する。

各中隊の配置 
 第一線右より 第1中隊、第2中隊、第4中隊

 第二線右より 第3中隊、歩兵砲中隊、第5中隊

その中間を大隊本部と機関銃中隊が前進する。

 独立歩兵第21大隊は敵と交戦中にして、その戦力は二分の一程度に低下して苦戦なり。



「部隊長に敬礼。頭中」遠藤大尉の号令だ。
これがお互い見納めになるかもしれない。
 
解散した将校は顔を見合わせ、手を握り合い、挙手の敬礼をし合ってそれぞれの陣地へ帰る。

 当番が「乾杯の支度が出来ました」と言ってきた。
湯呑みを眼の高さまで上げて、お互いの顔を見合って飲む。

ブタノール1,水2の割合で薄めたものだ。

続いて命令を下達する。

「大隊は主力をもって本夜半、沢岻、安波茶を経て伊祖高地並びに伊祖城趾の敵に対し夜間攻撃を決行し、陣地を奪回する。第4中隊は多田少尉を尖兵長として第3小隊、続いて第1小隊の我々。中隊長は指揮班・第2小隊とともに山本小隊(第1小隊)の後方を前進する。敵に遭遇した時は直ちに尖兵小隊の右に展開し、別命があるまで前進を停止、着剣にて待機せよ。各人の距離は概ね5歩とす。小隊長の位置は常に右にあり。各分隊は弾薬、水筒等の防音装置を確認せよ」。


尖兵小隊より連絡兵が来た。それを聞いて「第1小隊前進」と命令を下す。
 
壕の外はいやに明るい。間断なく打ち上げられる敵の照明弾が、今夜は特に明るい様な気がする。時計を見ると23時を指している。

この分だと21日午前1時には敵に接触するかなと思う。


 いよいよ敵に接近してきたと思った時「パーン」と銃声。

敵の夜間標的射撃に間違いない。

戦闘の第3小隊長多田少尉が狙撃され顔から頭に受傷し戦死。

私が代わって先頭を進む。

大きな音がして照明弾が5・6発。静止。絶対に動いてはいかん。

前方の大分高い丘には敵の重機関銃ががんばっていることだろう。

この低いサトウキビ畑の中では夜が明けると万に一つも生命はない。

何とか100m前進し、傾斜地までたどりつかなければ全滅だ。

右第一線の第2中隊が敵に発見されたようだ。夜間の集中砲撃を受けている。

前進前進。100m前に高い台がある。

あれに取り付けば敵との距離150mだろう。

そうすれば艦砲も飛行機の爆撃も不可能な距離になり昼間の戦闘に持ち込める。この附近は独立歩兵第21大隊の陣地で第3中隊長がおられると思うが、一人の兵隊もいない。皆やられたのか。それにしては戦死者が一人もいない。全く不安になる。



 斥候3名を出す。35分過ぎても誰も帰らない。

前方の小高い丘から重機関銃が火を噴いて曳光弾が打ち込まれてきた。敵の威力偵察だろう。

中隊が接近しているのを感づかれては駄目だ。擲弾筒を撃ち込みたいのをじっと我慢する。

時折小高い丘から重機関銃を撃って来る。場所もわかってきた。もう少しの辛抱だ。

距離は約300mか。やはり中隊単位以上の敵が配備されている。中隊長に進言する。

「擲弾筒で左右の重機関銃をやっつけて、軽機と擲弾筒の一斉射撃の間に敵に接近突撃をしたい。じっとしているよりも損害が少ないと思います。ただし40~50名はやられると思います。このまま後退命令の出るのを待てば全滅です。長居は無用。突っ込んだら今のところへ引き上げて穴を掘って貝になりましょう」。


 「敵の重機関銃が撃たなくなったら直ちに軽機分隊は撃ちまくれ。擲弾筒も撃ちまくれ。その他の者は必死に匍匐前進。遅れた者は死ぬぞ」最後のこれが一番効果的である。

遅れた者は死ぬ。沖縄戦は間の取り方が難しい。理屈ではない。動物的勘が重要だ。


「よし行くぞ。撃て」と静かに命令して、一番先に向かって匍匐前進を始めた。
敵前30m、手榴弾を投げた。軍刀を抜き、高く上げた。何も言うことはない。

今まで何十回もこの方法で夜の襲撃は成功した。そして50m。「退がれ」と低く命令する。敵兵をつかまえて斬ったり、突いたりは気の狂った人間のやることだ。思考の世界は全くない。

 今度は元いた所に全力疾走。斜面について水飲め、穴掘れ、穴掘れ。
誰も小隊長の穴を掘ってくれる訳ではない。自分の穴を必死で掘る。墓穴になるか。生きる穴になるか。自分では全くわからない。

しかし、それが一番死に遠い動作だと信じてやっている。

多田少尉や斥候に出た3人、そして突撃で何人、誰が戦死し又は傷ついたのか。調べる暇もなければ手だてもない。「もうすぐ夜が明けるぞ」夜が明けるまでに陣地構築をしたいと思うが地形が良くない。

分隊長集合させて命令下達。「各人壕を掘れ。1時間で入れ。入ったら偽装して絶対に動くな。敵が接近しても射撃命令及び攻撃命令のあるまで貝になれ。動いて敵の注意を絶対ひくな。全滅するぞ」


4月21日

 城間、伊祖、安波茶地区では終日死闘が繰り返されたが、城間陣地と安波茶陣地を確保して米軍の進出を阻止した。第64旅団長は独立歩兵第15大隊に旧陣地へ復帰することを命じた。同大隊は2日間の戦闘で約三分の一の損害を受けた。 

 20日夜、中央を前進中の第3中隊と歩兵砲中隊は敵の間隙を前進し、伊祖北側高地(伊祖城趾)に到着し、独立臼砲第1連隊と合流した。この夜間攻撃で唯一の戦果であった。
しかし大隊主力の安波茶附近の夜間戦闘は遂に21日の天明を迎え、夜間攻撃は不成功であった。

昼間は敵の重機関銃、迫撃砲の集中砲火の中で、飲まず食わず、微動だにしない生ける屍のごとく日没を鶴首す。たとえ救援を求めても救援はあるはずもなく、その兵力がどこにもないのは自分達が一番よく知っている。ただ敵戦車の来攻がないのが不思議なくらいだ。


午後5時10分。

まだまだ明るいが脱出しなければ。発煙筒を撃つ。煙が濃く流れ始めた。各分隊も発煙筒を発射。
敵が煙の上に射撃を開始する。

「よし行くぞ!」と分隊長に声をかけて、斜め後方の壕らしいところを目指して走っているのか、飛んでいるのか。第2小隊も第3小隊も無勿論第1小隊も。

「脱兎のごとく」とはこの様か。案の定、敵は迫撃砲どころか艦砲まで動員して、今までいたところが全く見えない。15分間の轟音の後の風景は、今まであった高さ20m程の小山がない! サトウキビ畑も何もない。眼を疑った。あそこにいたら何が残ったのか。

きっと何千発という大小砲弾が撃ち込まれたのであろう。目の前に見た砲撃のすさまじさは、その場にいた人間だけしか知らない。

 そうだ、急ぎ小隊の安否を報告しなければならない。

やっと我に返って第1分隊長を呼ぶが返事がない。不安になった。伝令の松浦上等兵から岩佐分隊長と楳木上等兵の消息だけはわかったが、他の事は全く不明だ。第1小隊長以下8名を残して壮烈な戦死者を出した。ああ情けない。くやしい。涙がとめどなく流れる。残る8名が全員声をあげて泣く。 

(独立歩兵第15大隊第4中隊第1小隊長山本義中少尉の手記より抜粋)


大きな戦いの中に小さな小規模戦闘が幾つもある。

大きな戦いは戦史に刻まれても、その中で多くの兵隊達が戦い戦死していった実態は余り顧みられることはない。

伊祖高地の夜間戦闘もそうした戦いの一つともいえる。

決して少なくない戦死者である、遺族は果たして肉親の最期の様子を知りえたのだろうか?

猛烈な砲撃の跡に戦友の遺体はあったのだろうか?日本側の記録はこうした個人の書き残した手記があれば後世にも残る可能性はあるが、そういうのがないものは戦史にも残らないのである。