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【例話2】うちもやりょうた!! 頭髪違反,喫煙くらい,それがどしたんな!!
これもある高等学校での話。
[生徒像]
1年生の男子生徒A(以下,「A」と表記)は小学校・中学校と,校内外で問題行動を繰り返してきた。そのハチャメチャ振りは,Aが住む小さな町の隅々まで知れ渡っていた。無論,高校入学後も落ち着くことはなく,授業妨害は日常茶飯事,喫煙,飲酒,頭髪違反,生徒間暴力,挙げ句の果てには対教師暴力を起こす始末だった。
日々,繰り返される深夜徘徊のため昼間に眠り,登校しない日が続いた。珍しく昼間に起きていても,遊びに出るか,登校しても授業妨害を指導され,教師と激しく争った挙げ句に郊外へ飛び出していくのがお決まりのパターンだった。したがって,出席に必要な時間数は早くに不足の事態を迎えようとしていた。
[学校の対応]
学校(小規模校)は「生徒指導規程」※1の周知徹底を図っていた。入学式の日だけではなく,事あるごとに,全校集会・学年集会,個別指導などで継続して周知徹底を図っていたのである。その対象は,勿論のこと,保護者にも及んだ。入学式後の各クラスでのオリエンテーション,定期・随時家庭訪問,PTA総会及び学校行事など,計画的・継続的に行われたのである。
Aの問題行動時には,校内の教室を離れた別室で反省の時間を設け,担任・学年団を中心に,他の学年団の教師も加わり,入れ替わり立ち替わり,Aとの対話を行った。全教職員で共通理解した指導方針・指導方法に従い,一人ひとりの教師がしっかりとAの思いを傾聴するように努め,Aに問題点を見出させ,指導に当たったのである。
こうした学校の対応が,事あるごとに繰り返されたのである。
[担任の教師像]
担任・副担の男性教師はほぼ毎日のように,問題行動が生起しようがしまいが,家庭訪問を繰り返した。特に,担任は周囲から見ていても,いずれの生徒も可愛いといった感じで,教育活動(生徒)に対して熱心な教師だった。学校という組織の一員との自覚も堅固であった。しかも,とてもメリハリのある教師で,「いけないことはいけない。」と毅然と,そして豪快に,丁寧に指導する教師であった。その一方で,一人ひとりの生徒の感情における微妙な起伏を敏感に感じ取る能力に長けていた。だからこそ,生徒を対象とした,日常的な何気ないように思える声掛けが,生徒の心に響きながら蓄積していったのである。
[保護者(母親)像]
30代半ばをやや過ぎ,頭髪は明るい茶髪。良い言い方をすれば,物言いは歯切れが良い。いや,良すぎる。教師が家庭訪問に訪れると聞くだけで,戦闘モードに自然に入ることができた。家庭訪問時の学校の指導・助言に対して,一言一句,激しく反発をする。挙げ句の果てには,Aの頭髪違反・喫煙が重なった際の担任・副担の教師による家庭訪問時,次のように声を荒げるのだった。
「うちも,高校生の頃,(頭髪違反・喫煙を)やりょうた!! 頭髪違反,喫煙くらい,それがどしたんな!! 」
「それでも,うちはいっぱし,今,一人の大人としてやりょうる!!」
「学校のルールじゃゆうて,学校が勝手に決めたルールじゃろうが。なんで守らんといけんのんなあ!!」
「お前ら(教師,延いては学校),うちの子を退学させようと思うとるじゃろうが!!」
これらの暴言をAの前で,担任・副担任の教師に放つのであった。
「生きる自分への自信を持たせる
「鍛地頭-tanjito-」」の塾長 小桝雅典です。
今回は,「教師視点から考える「保護者等―教師(学校)」間の関係性について」の第二弾です。
今回,登場いただく保護者は一見所謂「溺愛型」に見えるのですが……
だから,いつも口酸っぱく申し上げるのです。
類型だけで保護者(他者,業界によればクライアント,会員,お客様など)を画一化した色眼鏡(タイプ別)だけに当て嵌めて見てはならないと。
日々,他者(ひと)は人それぞれの〈人〉としての生の営みを紡いでいます。
その〈生を営む人〉を類型(タイプ)別に,ただ杓子定規に当て嵌め,「あの人は○○タイプだから,××に接すれば良い。」「あの人は□□タイプだから,△△に接すれば良い。」など,短絡的思考で関係性を結ぶほど,「……タイプだから」と判断された人にとっても,した人にとっても,これほど不幸なことはないのです。
そのようなことでは,まず,絶対に教師は務まらない。
いや,教師であってはならない。
それは(乳幼児・)児童・生徒が被害者になってしまうから。
抑々,誰が,何の(誰の)権限で「……タイプ」と当て嵌めるのか?
「……タイプ」ならば,必ず「……に接する。」とする根拠は何なのか?
(多面的総合体の人間は,所謂「……タイプ」を重ねて有していることが,往々にしてあるのです。)
それらは全て判断主体の主観なのです。エゴイズムです。
例えば,教師が,その教師(判断主体)の主観・エゴイズムで(乳幼児・)児童・生徒と接して良いのですか!?
保護者は,それを良しとするのですか!?
このことは,教師が保護者と接する場合でも同様に言えることです。
〈その人そのもの(その人の真実)〉を見,それに寄り添うことから,その人との関係性を構築しようとする意志のないところに,まずは〈教育〉は成立しないのです。それは,一般的に良好な人間関係を築くことにおいても同様です。
無論,これは乳幼児を含む話です。
今回の「例話」に登場する母親においても,この人物を公式どおりに「溺愛型」※2とだけ見て接してしまえば,最たる犠牲者となるのは,Aなのです。
それはなぜなのか?
今回のテーマは,そこにあります。
注:写真の女性は本文とは全く関係がありません。イメージ画像です。
(1) 「生徒指導規程」の押し付けはやめろ!!
「例話2」の母親について分析し,「母親―教師(学校)」間の良好な関係を構築するための考え方を述べる前に,この「1」では,教員採用試験受験者を少し意識して「生徒指導のセオリー」の一つについて述べておきたいと思います。
ただし,飽くまでも,教員採用試験受験者を少し意識するだけで,私の思いとしては,学校に通うお子様をお持ちの保護者の皆様方には,特に注視していただきたい内容との思いが強いのです。そうしたお子様をお持ちでない方々にも。
広島県は全国において生徒指導の先進県と言われています。
その理論と実践をお知りいただくことで,学校が行わなければならない生徒指導の内実を理解していただき,保護者・地域社会として,学校との良好な関係構築に向け,保護者及び地域社会が果たさなければならない役割とは何かを考えていただきたいのです。無論,各都道府県の生徒指導に対する考え方等には若干の相違があるでしょうが,根幹は一であると考えます。
「生徒指導規程」とは※1に記すとおりです。広島県以外の状況については詳らかではありませんが,本県では中学校・高等学校で90%以上が学校に常設,小学校もそれに近い状況にあります。特別支援学校は約50%です。
要するに,学校が育成を目指す児童・生徒像に向け,生徒指導の方針・項目・方法を定めている所謂「学校の生徒指導のルールブック」ですから,問題行動等が生起した場合には,学校はこの規定に従って児童・生徒を指導するわけです。
だからこそ,日常的に,児童・生徒,保護者及び地域社会への周知徹底が必要になるわけです。
ところが,経験年数の少ない教師や児童生徒及び保護者等とうまく人間関係を構築できない(内の)多くの教師は,やってしまうのです。この規程を恰も聖典,水戸黄門の印籠のように,児童・生徒及び保護者に対して振り翳すのです。
「やい,やい,やい,やい!! この「生徒指導規程」が目に入らぬか!! ここにおはする「学校のルール」を何と心得る!! 恐れ多くも,先の副将軍「生徒指導規程」にあらせられるぞ!! 皆の者,頭が高い!! 控えおろう!!!」
と言うことはないでしょうが,「「学校のルール」だから従いなさい。」とだけ言ってしまうのです。それで任務を遂行した気になってしまいます。
そんなもの,私だって聴く耳を持とうとしません。
なぜ「生徒指導規程」が存在するのか?
一条,一条の規定が何を目的として定められているのか?
そこを知りたくありませんか?
そこが分かれば,保護者の立場としては納得がいくはずなのです。
(それでも,「納得しない。」という保護者はおられますが。(笑))
なぜならば,その目的は,
「○○○○を□□□□すること。」
にあるからです。
真面(まとも)な保護者ならば,納得されることなのです。
逆に,納得されないということになると,つまり,「○○○○を□□□□」すること。」がないということになります。
「生徒指導規程」は学校が定め,常備しておかなければならないとても大切な「学校のルール」です。しかし,その存在意義を,一人ひとりの教員が学校の指導方針に従って,それでいて自分の生きた言葉できちんと説明できない限り,その効果を発揮するものではありません。
このような話をお聞きになって,保護者の立場から,この規程をどのように捉えられますか?
「えっ!?」
「○○○○を□□□□すること。」が分からないのだから,答えようがない。」と。
そのことについては,このシリーズの最後に触れさせていただきます。
(2) 頭髪指導違反及び出席時間数が不足している生徒への指導に係る保護者との関係性
ア 頭髪指導に係る保護者との関係性
昔から頭髪指導をめぐる裁判事案が生起しています。
(具体的な事案の態様には,報道等では明らかにされない事実がありますので,)一概には述べられませんが,頭髪指導に係るセオリーは,次のとおりだと考えます。
ここでは,第1回でも引用した前掲資料ⅰ(p.26)から引用します。
学校において生徒指導規程に違反した髪型をしている生徒は,表面的には流行やファッションを追い求めているように見えますが,内面では,自己実現ができていなかったり,友人や家族との人間関係がうまくいかないことで発見されたりするサインであったりする場合もあります。こういった,生徒指導規程を守らないことに現れたサインを丁寧に汲み取り,生徒の気持ちを受け止めて,自己の状況に気づかせるなど内面に迫る指導を行うことが必要です。
学校がなぜ頭髪指導を行うのか,その目的や手順等については,入学時やPTA集会等の機会を利用して説明する等,保護者に理解を求め協力を依頼します。
注:下線は小桝が施しました。以下,同様。
因みに,文部科学省が認めた「生徒指導のてびき」(広島県教育委員会,平成22年3月,p.9)…ⅱ には,頭髪指導について,次のように記されています。
イ 頭髪や服装は自己表現の一形態であるとともに,自分の心の状態や自分と社会との関係の在り方を表す作用ももっています。また,自分の所属する集団の特徴を表現する作用ももっています。
したがって,頭髪や服装は,周囲に一定の印象を与えたり,社会関係に影響を与えるなど極めて社会的な働きを持っています。頭髪や服装を指導することにより,児童生徒に,場所や状況に応じて適切な態度や行動をとることができる力及び社会性を育てることができます。
ウ 児童生徒が,学校において定められた制服や標準服を適切に着ることによって,学校への帰属意識や誇りを高めたり,集団や仲間へのつながりを強くすることができます。そのことで,集団の人間関係が強くなり,集団生活がより円滑になるとともに,集団のもっている教育力がより発揮できやすくなります。
エ 学校における頭髪や服装の指導は,それ自体が目的ではなく,頭髪や服装のもつ機能,制服のもつ機能を集団生活の中でうまく活かし,基本的生活規律や社会性を育てたり,集団のもつ教育力を高めていくための手段であるといえます。
したがって,学校生活(生徒指導)について,一人の保護者としての見解を述べれば,端的に申し上げて,次のようになります。
自分のこどもの頭髪が「学校のルール」に違反していようがお構いなしで,「自分のこどもだけは「学校のルール」の適用外としてくれ。」とは,余りにも虫が良すぎる話なのです。保護者の社会性が疑われるわけです。
「学校における頭髪や服装の指導は,それ自体が目的ではなく,頭髪や服装のもつ機能,制服のもつ機能を集団生活の中でうまく活かし,基本的生活規律や社会性を育てたり,集団のもつ教育力を高めていくための手段である」(前掲資料ⅱ)とは,保護者に対して,先述してきたようなことを求めていると考えることができるのです。
申し上げるまでもなく,学校は「集団生活の場」なのです。
ただし,学校によれば,「地毛指導」と称する指導を行っているところがあります。確かに,頭髪に係るスキル上の指導には難しさがあります。(飽くまでも,スキルに走るからですが。)この辺りの事情については,やや専門的になってきますから,追々,無料メルマガ(教員採用試験合格道場―オンライン「鍛地頭-tanjito-」のメルマガ〔現在,準備中です。登録は現段階でも可能です。〕)の方に認(したた)めることにします。
注:写真の女性は本文とは全く関係がありません。イメージ画像です。
イ 出席時間数が不足している生徒への指導に係る保護者との関係性
一口に,「出席時間数が不足している」と言っても,「例話2」のように,高等学校にあって,当該の生徒の問題行動によるものもあれば,疾病や怪我などによるものもあるなど,その態様は一律ではありません。したがって,各学校が出席時間数の不足した生徒を出さない組織体制をどのように構築するかが大きなポイントであると言えます。
また,止むを得ず,「出席時間数の不足」が事前に予想される場合には,当該生徒の学校での様子や学習状況等について,計画的,継続的,適時に,担任の教師や学年団を中心として,学校は保護者と組織的な連携を図っておく必要があります。
さらに,保護者には,当該生徒の課題となる点ばかりではなく,日常の学校生活で垣間見る成長した点や良い言動等も明確に伝えなければなりません。なぜならば,学校でのこどもの姿は家庭にあって捉え難いのですから,「良いことは良いこと,悪いことは悪いこと」として,多面的・多角的・総合的に伝えなければ,保護者はこどもの学校生活の一側面だけを理解してしまうことになるからです。それでは,保護者の家庭での教育に偏向した情報を与える形になってしまいます。
一方,保護者は,こどもの学校生活を学校より提供される情報から,多面的・多角的・総合的に把握するように努め,(「出席時間数の不足」だけに限らず,)学校の指導方針・方法を理解し,学校と共に歩む態度が必要です。ですから,納得のいかない点については,きちんと納得のいくまで学校に質問し,労を厭うことのないように,理解を深めることが大切です。こどものためなのですから。
基本的な考え方
進級や卒業の認定については,校長が判断するものであり,担任等が単独で判断して生徒または保護者に伝えてよいものではありません。また,原級留置や卒業延期等については,同年齢集団との学習の機会を奪ったり,学習意欲を喪失させたりすることにつながるなど,生徒の発達や将来に大きな影響を及ぼす可能性もあることから,校内のルール(教務規程等)に沿った,慎重かつ適切な,組織としての対応が求められます。
併せて,校内ルールについて入学当初から機会を捉えて生徒,保護者へ周知することを通して,学校の指導方針を理解してもらうことが欠かせません。その際,生徒を通じて文書を配付するだけでなく,三者懇談会や保護者集会等の機会を利用して直接保護者に説明することで,確実に生徒及び保護者に伝わるようにすることが必要です。
前掲資料ⅰ,p.22,下線は原文のまま。
対応のポイント
① 子供の将来を心配する保護者の気持ちを読み取り,まず,しっかりと話を聴きます。
保護者にとって,「わが子が進級(卒業)できない」という事実を突き付けられたときには,事前に話を聞いていたとしても動揺するものです。保護者の気持ちを推察し,誠意ある丁寧な対応が必要です。(後略)
前掲資料ⅰ,p.23
少しだけレベルの高い話をします。
現実に起きている話です。
上述の引用文の下線箇所にかかわることです。
進級や卒業の認定については,校長が判断するものであり,担任等が単独で判断して生徒または保護者に伝えてよいものではありません。(再掲)
前掲資料ⅰ,p.22,下線は原文のまま。
生徒の「出席時間数の不足」や問題行動に伴い,家庭訪問を行った教師が年度途中であるにもかかわらず,「単位の修得を認めない。」とか「卒業(進級)できない。」とか,しかも,校長でもないのに個人の判断で勝手にそれを述べ,学校の信頼を失墜する事案が生起しているのです。
ですから,遺憾ではありますが,保護者の立場として,万一,そうした場面に遭遇した際には,「それは,校長先生(学校として)のご判断ですか?」と訊ねてみられるのが良いでしょうね。
勿論,こうした事態が生起しないことを望むわけですが。
ウ 「傾聴」の効用
これまた,世の趨勢か,「傾聴」が数多くの分野でブームになりました。
教育界はカウンセリング流行の影響か,早くから「傾聴」が叫ばれていました。
児童・生徒に寄り添い,その声を「傾聴」する。
一方で,「傾聴」する態度と「いけないことをいけない」と指導する態度の区別とが付かない教員を増殖したことも事実でしょう。「傾聴」することは,何も児童・生徒の主張(要望)の全てを容認することではないのです。
「傾聴」とはまさによく言ったものです。先人は賢い。
「聴」に着目してみましょう。『新字源 改訂版』(小川環樹・西田太一郎・赤塚 忠編著,角川書店,2004.1)によれば,「聴」の旧字「聽」は,漢字の構成からして,「耳」+「正しい心(つくりの部分)」+「裁く(耳の下の「テイ」と読める部分)」から,「聞いて正しく裁く,ひいて「ゆるす」」の意を表わすとあります。その他にも,「明らかにする。うけいれる。 」の意を有します。
つまり,「聴(聴)」は「相手の心(関心・理解してほしいこと・伝えたいこと)に寄り添い聴くこと」を意味するのです。よく見れば,つくりの部分には,「心」の上に「目」があり,心の目,心眼が開かれているのです。(相手の)〈真実〉を見抜くという意味です。
因みに,同漢和辞典によれば,「傾」には「耳をそばだてて聞く。」の意があります。
要するに,「傾聴」は「耳をそばだてて,心眼を開き,相手(他者)の心(関心・理解してほしいこと・伝えたいこと)に寄り添い聴くこと」という意味になります。「傾聴」の姿勢さえあれば,当然のこと,相手の話の内容(理解してほしいこと・伝えたいことを心の奥底に掩蔽した表象を含む)は理解できるのです。
したがって,教師の場合,「傾聴」とは主に「(乳幼児・)児童・生徒及び保護者等の包み隠された(表現されていない)心の声(関心・理解してほしいこと・伝えたいこと)を聴くこと」となります。(同僚間においても同様ですが。)
そこに,「傾聴」の効用(意義)があります。
ただし,執拗に繰り返すように,「傾聴」は受け容れてもその全てを許すこととは異なります。(乳幼児・)児童・生徒及び保護者等の心の声を聴いたとしても,それが一般に「いけないこと」であるならば,「いけないことはいけない。」と言えることにのみ,〈傾聴〉は成立するのです。「いけないことをいけない。」と言えないことは,「鵜呑み」「迎合」「屈服」でしかありません。そして,それは,プロの教師の世界では〈指導〉とは呼ばないのです。
このように述べて来ると,「では,どのようにしたら,「傾聴」できるようになるのか?」との質問を往々にして受けるのです。いや,受けて来ました。これは,遺憾ながら,世の常なのでしょうか? (敢えて主語を明示せず,また,主語を「教師」に限定せず,一般論として述べていますが。)
なぜ「私も「傾聴」できるように,粉骨砕身,研究してみます!」などの元気の出る応答がすぐに返ってこないのでしょうか?※3
ですから,私はそのような質問を受けた時には,次のようにお答えしてきました。そして,お答えしていきます。
「どのようにしたら,「傾聴」できるようになるのでしょうね? 私も勉強・研究しています。一緒にしませんか?」
だって,本当に勉強・研究中なのですから。
注:写真の女性は本文とは全く関係がありません。イメージ画像です。
(1) 典型的な「溺愛型」に見えるが…
(2) 担任の教師が度肝を抜かれた母親の一言
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飽くまでも,「例話2」及びそれに伴う後日談は,私が当塾のために創作した教材※4の一部です。
ただ,似たような経験はあるのです。
その後日談ということになるのでしょうか?
現役の教員時代,あるAのような生徒の家の上棟式にご招待をいただきます。
そして,その生徒の中途退学後,当該生徒,母親及び弟・父親・祖父・祖母と私の家族との付き合いが始まります。
現在では,当該生徒(今では40歳過ぎのいいおっちゃん)と母親とは「生徒・保護者―教師」間のフレームを外し,呉の夜の街(広島県)で呑み歩く,ただの酔っ払いの徒党と化しているのです。
生徒指導のスキルがどうのこうのというお話ではないのです。
学校教育には,そうではないものがあるのです。
スキルは教えられても,簡単には教えられないものが。
今回はここまでです。
駄文にお付き合いいただき,誠にありがとうございました。
次回は,生徒の進路指導をめぐる「保護者等―教師(学校)」間の関係性について考察してみようと考えています。
次回もお付き合いいただけますならば幸いです。
→次回に続く
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