時代 | おさむの書

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いち医学生から研修医、そして一人前の医師となり地域について考えていくブログ

2017年、それは時代というキーワードを意識させられた1年間だった

 

 

大分の時代

僕は大分に帰ってきた2009年、学生団体BTG大分を設立した。その当時は学生団体(のようなもの)が存在せず、東京帰りの自分としてはできるだけ大分に居る自分を納得させる必要があった。大分で学生団体を設立するのは、東京の頃の自分を振り返ると自然な流れだった。

 

東京の頃は、起業系・勉強系の活動が多かったが、中盤には議員インターン、終盤には地域活性化といった活動もしていた。

大分という社会に、学生イベントというのは説明するのが非常に難しかった。大分には、ウェイ系の大学もあることからその被害(イベントは一発屋で終わったり荒らすだけ荒らしてお礼もないし音沙汰ない)を受けた社会であったため、学生に対するイメージは良くなかった。聞く耳を持ってくれない人もいた。それを、コツコツ僕個人の信頼を上げたり信頼ある人物や組織とコラボすることでなんだかんだ実現までこじつけ、継続すべきものは継続してきた。

 

大分の街を盛り上げたいという有志の仲間もできた。

 

でも、やっぱ学生団体という肩書や個人という活動では心を保ってやり遂げたり継続するのは難しいものだ。

 

結果、街から去った人もいる。僕は、その人は社会に追い出されたと思っている。そういう意味ではまだ街を僕は許せていない。

 

 

やり方は違ったけど、自分の考えを持って動いた後輩もいた。たしかに彼は、常識なかったしやることメチャクチャだし約束守らない。考えることはいいけど、やらないし。実際彼はイベントを立ち上げたが、それをどう捉えているか、学生スタッフ側の評価や社会からの評価は必ずしも良いものではないのではないか。

 

数年後、彼が掲げた構想をカタチにしたようなイベントが普通にまちなかのスペースで行われているのを見て僕は思わず涙が出た。

 

 

彼のことをどう評価するか知らないが、彼は間違っていなかった

 

 

 

彼は、時代を間違えたのだ。

 

 

 

 

本当に地域にカクメイを起こせる人って、多分そういう時代の風も引き起こせる人なんだろうなと思う。

 

 

そういう意味では、ただ時代の流れがあってそれに乗っただけでうまくいったのは真の革命家ではないんだろうと思う。

 

 

BTGを立ち上げた時の学生と社会の反応は良くなかったが、イベントを繰り返すにつれ若い学生が街で何かをやっている光景はそこそこ見られるようになった。

 

もちろん、困ったことも起きた。

 

BTG以外の学生サークルがイベントをやることもあって、そこのイベントの苦情がBTG、というか僕のところに来ることもあった。

やっぱ学生はホウレンソウできない、連絡よこさない、ドタキャンする、社会をなめてるところがある。そうだ。

まだ社会の中で学生といえばBTGというところがあった(ありがたいことに)り、あるいはその人が僕の名前を出したりプレゼン資料にたまたまBTGの写真が使われたりしたとかあったのだろう。

そんなことがありながら、僕は学生時代を終えた。引退ブログ『僕が大分に残した2つの罪』『学生団体BTG大分

 

 

時代は移りゆくもので、あれだけ自分らも含め有志で議論した、駅ビルができたあとの大分駅北口側商店街の生き残りの議論。

結局あの時たくさんの時間と機会を投資して議論したことが意味あったかどうかは抜きにして、まちなかでは定期的にイベントが開催されるようになった

残念ながらそこに僕が考える学生の居場所を積極的に感じられることは少ない。

BTGはまだ存続はしているが、社会の中での役割は竹田のすごあまこ〜んと選挙の際の啓蒙活動くらいで、その他の活動はまぁまぁカタチやその目的は多少変われど一般の人から見ると続いているようにみえる

 

じゃあ、自分はどうすればいいんだろう。

 

卒業と勝手に勘違いして、やめてしまう例を多く見てきた。それって見た目キレイに取り繕ったただの投げ出しじゃん。

地域に土足で踏み込むと僕がよく表現するやつだ。自分はそれをしたくない。

 

一応水面下で活動はしているものの、水面下ゆえにまだ一部にしか知れ渡っておらず目立つなんてことはまったくない。

 

別に目立つことが目的じゃないんだけど・・・。

 

 

 

身のフリについて、ある人は僕に『それをやりたいなら医者をやめないと。やめるべきです』とまで言った。

 

 

そうなのか・・・??

 

 

 

ただ、そういう迷いを断ち切れた出来事があった。

 

 

 

大学で当直していたら、すごくお世話になってる街の知り合いが急患で運ばれてきた。

 

救命のために緊急手術が必要な状態だった。

 

 

 

麻酔をし、術後ICUで管理し、経過はビックリするくらい順調だった。

 

 

その時思った。

 

 

 

街の中で、僕の役割はこれなんだと。

 

 

 

 

 

そこは、自信を持って言える。

 

 

 

 

自分の時代

 

 

自分自身について。

 

ちゅっとふと、昔の自分を振り返ることがあった。

 

BTGの歴史上自分が一番、やってたと同時に優秀な仲間(平成23年卒業世代)に恵まれていた時代だった。

 

 

先日のブログでも少しこの時代のことは振り返った。

 

自分はやっぱ、過去は超えていくものだと思ってるし、ここまでたどり着いたすべての経験をカテに今があると思っている。

 

ゆえに、すべての過去が『あの頃は、、、まぁ。。。ねぇ・・・』(未熟だったなぁ)という意味での振り返りになる。ようにしているつもり。

 

 

ところが、6年ほど前の自分を振り返った時に今の自分にかけているものがあった。

もっというと、6年前がピークでその後失速したものがあった。

 

 

それが、冒険心

 

 

 

大分で、東京の輸入活動がまったく通用しないことはBTG設立数ヶ月で明らかになった。

その後は、大分にあるものに目を向け(Blue Santa Clausや竹田での活動等)、それを再発見、再認識、発信という活動にしていった。

BTGや府内次世代フォーラムでやってた街イベントや地域の魅力発見に関連する活動がそう。

 

 

そういうのは、東京でもやったことはなかった。だからまったくの手探りで、その都度軌道修正やレベルアップなどをしながら創り上げてきた

 

 

アントレをしだしてから。

第1回目はもう手探りだけどその都度やりながらで、一番苦労したアントレだがその分得るものも多かった。

第2回目は、自分は完全に第1回で燃え尽きていたのだが、第1回を受けて「やり残したことがある」と受講生有志が名乗りを上げて運営をやって最終的には街活へとつながっていった。

第3回目以降も、竹田を中心としてアントレプレナーシップを社会人としての基礎力と定義付けて活動を続けた。

 

でもなんか違う。違った。

 

 

当時を深く深く振り返りをしてみると、全国飛び回ってサンタや全国の学生団体のメンバーと会って(どまんなか土井ちゃんとかかぼす会議とか)、やったこともないことを「できる」と思って突き進んでいた

 

その頃と比べると明らかに今は・・・今も確かに人よりやってる方だけど、身の丈に合った行動というか。。。立場があるから社会人としてはそうすべきなんだろうけど。

 

一言で言うと、ほんと丸くなったな。

 

 

そして、丸くなったゆえの何かあったときの冒険心を完全に失っていた。

 

 

それを振り返った時、ちょっとショックで最近の自分にしては珍しく落ち込んで大失速があった。

 

 

 

「まだまだ自分の時代は現役で、今が一番輝いている。」毎年そのつもりで生きている自分が、過去の輝きのほうが大きくて・・・

 

ま、まだまだ医者としては駆け出しで下積みの時代なのだからそれでいいのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

生涯現役とか、ご活躍でとか言うが、人生ってその人で一番輝いている時代って、実はすごく一瞬しかないのではないかと思った。

 

 

 

大分に帰ってきて学生団体を創って、地域の活動をする。それを、刺激を受けることのなかった大学生に機会シェアをして人材育成(アントレプレナーシップ論)。

自分らしいやり方で大分に貢献しようとして活動していた。

 

その方面では一線を退いたが想いは変わることがない。地域のために。

東京で一緒に学生団体をやってた仲間には大分の中西理で完全に通るし、全国学生団体リーダーフォーラム的なものにも出たことがある。ま、学生時代が人より長い分、浪人生が現役生と同じ模試を受けていい成績を取る的なちょっと反則技もあるかとは思いつつも大分の中でいいライバルになろうという意識で走っていた。

 

 

医者という仕事について、患者の命を救うというカタチで大分に貢献している人に多く出会ってきた。

 

この人たちのほうがよっぽど目に見える形で大分に貢献している。

そもそも地域活性化系の活動は、地域活性化の定義とは?これが地域貢献なのか?といった、そもそも論(地域活性化の定義)ばっかして話がぜんぜん進まないことも多い。定義屋さんと僕は呼んでいますが。

でも、患者の命に関しては、答えは明白だ。

 

 

また、今は一線を退いたけど、昔はすごい偉業を社会にもたらした先輩方も多くいることを知った。

その人は、まだ腕は衰えずに多分現役に戻ったら大分はもっと良くなり、その人が再び舞台に上がることにこそ意味があると思える人もいる。

 

だが、世の中には様々な事情でその舞台に立てない人が大勢いる

 

実力は持ちつつも、力を発揮できる舞台に立つことができない人。

 

それに関して、「力がありながらそれを発揮しないのは罪だ」と言うことはできない。

 

その人が舞台に上がれない理由は、その人のせいじゃなく環境や外乱のせいだったりもするからだ。

 

 

 

 

次世代リーダーとか言ってた自分が少し恥ずかしくなりもした。

 

 

 

 

 

そこで思ったのは、大きな時代の流れの中で、たまたまその時代が来て、その時に発揮できる力をその瞬間に持ち合わせていて、ちょうどいいタイミングで舞台に上がることができる人というのはほんの一握りで、その裏には時代のスポットライトを浴びることができなかった人がビックリするくらい大勢いるんだなということ。

 

これまでいろいろ活動してきたが、実は僕個人の名前がスポットライトを浴びることは1回もなかった。

地域活動家の中で登竜門的扱い(?)の地元紙の、地域で活躍する人を紹介する欄に結局僕は1度も登場することはなかった。ただ、後輩はそこで取り上げられたりしてくれたのでそこは満足です。いつの日か僕は無冠の金メダルを美学と捉えるようになった。

 

 

でも、この大分にはきっとそういう人がいっぱいいるんだろうなと思う。

 

 

その世代が有能すぎて、俗に言う平成23年度卒業世代には再び舞台に上がってほしい願望はある。

ただ、上がることができない事情も理解できるだけに悩ましい。

 

そういう人がいるのだから、せめてその世代として、舞台に立つことなく、互いに互いの時代を生きていけばそれはそれでいいのかなと思う。

自分もそうだけど、今生きている場所というものもある。

 

そこできちんと、自分の華を咲かせること。

 

そして、その中でたまにつるんだりして互いにその時代を振り返り、その時の輝きを思い出しつつ、今の舞台でライトを浴びればいいと思う。

 

 

 

 

 

世の中は思っている以上に広く、自分が見てる世界というのは恐ろしく狭い。