とある町の公営住宅ーー。
葵は神妙な面持ちで居間に入ると、テレビを観ている建造に話しかけた。
「父さん、ちょっといい?」
「何だよ、深刻な顔して。腹でも痛えか? 明日は晴れの舞台なんだから、ちゃんと薬飲んどけよ」
「ううん、大丈夫。どこも痛くない……父さんに話があるの」
そう言うと、葵はテレビをチラッと見た。


「何だい、テレビの音が邪魔なほど大事な話か。こりゃあ、てぇへんだ」
「建造はリモコンに手を伸ばした。
「はい消しましたよ、お嬢様。何ざましょ?」
おどけたような表情を見せる建造の傍に腰掛けると、葵は父親の目をまっすぐに見て話し始めた。


「父さん、今までありがとう。私が三歳の時にお母さんが亡くなって、それだけでも大変だったのに、学費の高い音大まで行かせてくれ……」
「おいおい、やめてくれよ。何を言いだすかと思ったら。俺はそういうの苦手なんだ。それにまるで、嫁に行く前の挨拶みてえじゃねぇか。明日のプロデビューコンサートが終わったら、ここに帰ってくるんだろ? もういいから寝ろ」


「言わせて、父さん。今日言わなかったら、私一生後悔するような気がするの」
「大げさだなぁ。お前一人育てるくらいどうってことねぇよ。そりゃさ、母さんが死んだ時はめげたよ。正直、アル中になりかけたこともあった。でもよ、あの時の俺を立ち上がらせたのはお前なんだよ。テレビでたまたま観たオーケストラに釘付けになった小さなお前が、画面の前に飛んでって、「父ちゃん、あお、大きくなったらこの人になる!」って指揮者を指差したんだ。あの時は全身、鳥肌が立ったよ。で誓ったんだ。指揮者の道を断念して、小学校で音楽の先生になった母さんに代わって、葵を立派な指揮者にしてみせるってね。まあその分、ぜいたくはさせてやれなかったけどな。へへっ」


「ううん、今度は私が恩返ししなきゃ。待ってて、父さん。今にきっと、楽させてあげるから」
「何を生意気言ってやがる。お前は……いつか格好いい男と……一緒になって……ティッシュくれ……だから嫌なんだ、こういう話はよぉ、馬鹿野郎……」
葵はティッシュペーパーを取ると、建造に渡した。建造が大きな音を立てて鼻をかむと、葵もまた、その頬を伝う涙を手のひらで拭い、そして笑った。
窓の外では三日月が、細く美しい弧を描いていた。

<つづく>







三日月
ランキングに参加しています。
応援、よろしくお願いします。m(_ _)m
↓↓↓

人気ブログランキングへ


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ
にほんブログ村