号外であるので少し柔らかいことをやっていく。


唯識の中でもとりわけ阿頼耶識への注目度が高まる中、私は元型論のジェイムズ・ヒルマンに接近している。しかし、私はやはり全体も大切だとする立場である。現行では阿頼耶識に集中して吟味するが、これが本来ではない事を主張しておく。


仏教であるが、これもどのように捉えていくか、実は客体次第となる。私がどのように主張しようが、最後は客体が決めていかなければならない。しかしながら、これは仏教に限らずどのような宗教でも同じである。宗教といってもいろいろで、この業界の中ではそれなりの区分がある。一つに普遍宗教、もう一つに民族宗教となる。


これらにどのような違いがあるのかについて詳しく述べているのが空海による『十住心論』である。これを読めば日本におけるその当時の宗教を理解することが可能となる。当然、法相宗もこの中に詳しく述べられている。宗教、否、日本の仏教を理解していくには避けて通る事はできない。よって、この超分厚い漢文の古文書を読め!と師匠にいわれた場合、さてこれを自分自身でどのように処理するかを考えられたい。


古文書である上に漢文で書かれた書物を読破するどころか、理解しろとなったとき、そこを突破する方法を考え出さなければならない。


突破という言葉が出た以上、やはり、十住心論をいかにして読まないかがポイントとなる。読まずに理解する方法を開発するところに新たなる「苦」が発生し、それが合格点を与えてくれる。


実は法相宗における唯識論はこの思想を与えるものである。


空海が出てきたのでその対比で法相宗を比較すると、真言宗の醍醐味は即身成仏である。つまり、生きている間に如来の称号を授与されたい場合、この思想に流れるものである。ところが法相宗はそうではなく、大乗仏教ということもあり、基本的には即身成仏はないとする思想である。では、薬師如来はなぜ如来なのかを考える必要がある。輪廻転生で済む話ではない。そこで如来をひたすら眺めながら答えを考え出していくのである。


まず法相宗の基本は無理難題を解題として提示する。しかしながら、それは問題である以上、解くことができる。その解き方に工夫が必要となることは、これまでの吟味で明らかとなろう。つまり、無理難題に対しては「ファンタジー」にて対抗する事である。


ではそのファンタジーがどこから来るかといえば阿頼耶識、そして阿頼耶識こそは「苦」となる。ファンタジーを追い求めた結果として苦しい状況へと追い込まれることを「苦行」という。総合すると、苦行とは苦楽が同時に存在する状態である。これほどのイノベーションはなかろう。


無理難題について、薬師如来に限って話をすると、薬師如来が如来になった経緯はそもそも不明である。薬師如来がまだ菩薩であった頃に十二大願を発表しているが、これが前世であったとして、さて、如来になる為の対策を聞いたところで、「ワシにも分からん」との返事しかない。如来でも分からないことは田中誠一が問題を解決する事は不可能である。かくして、田中誠一としてオリジナルのファンタジーを発動させる事になる。


結果として、十住心論を読まずして理解しているふりをする事で合格点をもらう格好となる。


まずこれが如来になるための傾向と対策であるとすれば、実は即身成仏は可能となる。これにより法相宗では即身成仏を完全に否定していない。ここを見抜けるかどうかである。


このようなファンタジーはさて、どこから来るのかといえば、それが阿頼耶識である。卑近な例では、先生や上司からの指示を完全に無視することになる。ここに別れの苦が入ってくる。換言すると「分離」となり、これが個性化へと通じていく。


このような状況に「四苦八苦」という小乗仏教から続く思想があるが、この苦の作用は十住心論を読み込む苦ではなく、第三の道という新たな道を切り開くことへの苦となる。唯識派においてはこの苦を感じることができるかどうかを非常に大切にする。結果として、少なくとも唯識派においては目の前にある苦は苦の範疇ではない。「もっと大きな事で悩みましょう」との教となる。


ところで、日本の仏教を理解するために十住心論を読まない事はつまり、トリックスターとしての発想である。元型は阿頼耶識における本有種子に相当するので、私のこのファンタジーの世界に法相宗から合格点をいただきたいものである。


ところが、実際には十住心論相当の理解は必要となる。それをファンタジーの世界で解決するにはどうすればいいのか。これをしばらくの間、吟味していく。


ネタはいくらでもある。換言すると、ファンタジーの世界はほぼ無限である。当面は唯識派におけるファンタジーの世界にお付き合い頂ければ幸いである。


次稿に期待されたい。