【創業者、名経営者、政治家の秘話大公開】           -84ページ目
2007-07-07 23:25:56

第4回_小佐野賢治_目先の利益に囚われない買収術・損して特取れ

テーマ:観光

世田谷区上野毛(カミノゲ)の高台に広大な日本庭園があり、その庭の邸宅からは富士山と多摩川を見晴らせるという。この邸宅の主が誰かと言えば東急グループの総帥、五島慶太(ゴトウケイタ)である。 



時は昭和20年、上野毛の五島邸に粗末な背広を着たツルッパゲの男が強羅ホテルを買いたいとやって来た。



この時、五島は組合に越年資金をよこせとストライキを起こされ歳末生活資金の要求を突きつけられていて現金で500万円が必要であった。当時の500万円は現在の金額でいえば数十億円である。五島は組合対策資金を捻出するのに困り、ついに強羅ホテルを売ることを決意し、誰か買ってくれる人がいないか、当時の政友会の幹事長を務めたことのある大物代議士、田辺七六(シチロク)に相談したところ紹介されたのがこのツルッパゲの男であった。



しかしこの男の年齢を知って驚いたのは五島である。頭が禿げているので老けて見えるがまだ28歳だという。



「君が強羅ホテルを買うのか。」

「はい、売ってください。」

5百万円以下では売らないよ。ただし現金でだ。」

「結構です。」

「金は、急ぐんだ。明日までに用意できるか。」

「用意してみせます。」





五島はあまりにも若いので本当に現金を用意出来るのかどうか半信半疑であったが、この男は翌日、五島の目の前にトランクから取り出した札束を積上げてみせた。そのときのこの男の台詞がふるっていた。



「わたしのような若造が、大それたことをとお叱りを受けるかもしれませんが、天下の五島さんが強羅ホテルを手放されるということは、よほどお金が大変だったのでしょう。ついては、55十万円で買わせてください。わたくしのご挨拶の手みやげ代わりです。」



普通の若者ならいくら相手が天下の五島慶太といえども、足元を見て値切るが当然であるがこの男は違っていた。相手の言い値に、さらに1割の50万円を上乗せし、55十万円出したのである。 それから直ぐに強羅ホテルの売買契約は成立した。



このツルッパゲの男が国際興業の社主、小佐野賢治(オサノケンジ)である。後に五島は伝記執筆のためにしばしば訪ねてきていた経済評論家の三鬼陽之助(ミキヨウノスケ)に「小佐野は山梨の百姓の子だというが、打てば響く男で学問はないが妙に折目が正しい。いつも筋も通っている。太閤秀吉、いや木下藤吉郎の生まれ変わったような男だ」と感嘆したという。



小佐野は強羅ホテルの買収をきっかけに五島慶太の知遇を得ることが出来、国際興業がバス事業としての出発となった「東都乗合自動車」を譲ってもらったり、財界の大御所、小林中(アタル)の家を売ってもらう等、公私にわたりバックアップを受け国際興業を飛躍させる足がかりを作ることが出来た。



強羅ホテルの買収そのものは一見高い買物に見えるかもしれないが、その代りに五島慶太の心を捉えることが出来たのである。



私は先日、小佐野賢治が存命中に国際興業の経理部で働いていた人に話を聞く機会を得た。



私はそれまで小佐野賢治は乗っ取りやというイメージがあり、お金に見境がなかったのではないかと思っていたがそうではなかった。



小佐野は回収に時間がかからない事業にしか手を付けず、回収に時間がかかる事業は一切やらなかったという。また、どんなに小さい書類、細かい伝票にいたるまで小佐野本人が印鑑を押していた。小切手の一枚でも自分が納得しないものには出さなかったという。10代の頃、自動者部品の販売をしていた時は下宿先の電気代、水道代を払うのがもったいないと営業用のトラックで寝ていたというほどの倹約家でもあった。小佐野も他の創業者がそうであるように1円たりとも無駄なものにはお金を使わない人であったのだ。



清濁合わせ持ち突出して人情の機微にたけていた小佐野にしてみれば一見高い買物に見える強羅ホテルの買収も五島慶太の心を捉えることが出来れば安い買物という計算があったのであろう。



小佐野賢治といえば政商として成り上がった男というダーティなイメージがあるかもしれないが、それだけで歴史の隅に片付けてしまうには余りにも惜しい人物である。現代の経営者も、特に買収やM&Aで事業を拡大しようと考える若い経営者はこの男から学ぶべきことは多いのではないかと思う。






関連サイト

小佐野賢治エピソード

http://amba.to/m7rDki

小佐野賢治語録

http://bit.ly/mZLP8Y


文責 田宮 卓









































2007-06-29 22:30:20

第3回_中川懐春_業務提携の成功例

テーマ:家電

昨今、弊社と業務提携をするとお互いシナジー効果を発揮することが出来ると提携話しを持ちかけるが、相手の企業が難色を示し結果、暗礁に乗上げるケースが多いが何故だろうか?ようは信用の問題だ!



昭和272月、中川電機(現、松下冷機)の創業者中川懐春社長が終戦後、進駐軍の冷蔵庫を生産していたが軍が引き上げることとなったため、国内向けの生産を模索していた。

かねてから親交のあった久保田鉄鋼の創業者、久保田権四郎に相談したところ


成功させるためには絶対松下さんに引き受けてもらうべきだとアドバイスをもらった。


そこで中川社長は松下幸之助氏に提携の話を持ちかけた。商談時間は僅か30分。お互い裸一貫から会社の経営をやってきた者同士。2人には駆け引きも腹を探る必要もなかった。


中川社長のハキハキした物言いに信頼に値する男だと直ぐに松下氏は感じた。「販売を引受けるとした場合の条件は」と聞かれ「条件は一切申しません。全て貴方にお任せします」という中川社長の潔い一言で松下氏は工場も何も見ずにその場で提携を承諾した。(当時の中川電機は資産3億ぐらいある大会社です。)


その後、中川電機はナショナル冷蔵庫の生産を一手に引受け、後に社名を松下冷機と変えて発展を続けた。中川社長は松下電器の経営を学ぶため松下電器で修行もして後に松下電器の副社長まで勤めた。


確かに今の日本の資本市場は欧米に比べてまだまだ考え方が未熟と非難されるかもしれないが、信頼がなければ提携は成功しない。



文責 田宮 卓












2007-06-26 22:24:26

第2回_大原聰一郎_経営者の倫理観を問う

テーマ:繊維

昨今企業の不祥事が後を絶えませんが、違法で利益が上げるのは論外としてもグレイゾーンであれば何をやっても構わない、あるいは経営者が何も知らなかった、部下が勝手にやったことと言って責任逃れをするような発言が見受けれるが本当に経営者はこれでよいのだろうか。


今こそ我々は先人の経営者達がどのような倫理観を持ち企業経営を行なってきたのかを知り歪んだ倫理観を正すべきではないかと思います。

例えば戦後の経営者はどうであったか、兵庫県芦屋市に六麓荘(ロクロクソウ)という、戦前関西の財界人が東洋一の住宅街を作るというコンセプトで山を切開いて作った住宅街があります。住宅といっても千坪程の規模のお城のような豪邸ばかりの家です。しかしこの豪邸に住んでいた財界人も、戦中、戦後は食料がなく食べるのに困ったそうです。


それでも彼らは闇には一切手を出さず庭でジャガイモを作り飢えを凌いでいたと聞きます。「国の決めたことには従わなければいけない」、このような気持ちを皆持っていたといいます。(ただし、当時の日本は闇市がなければ経済がもたなかったとのも事実ですので、闇市自体は必要なことではあったと思います。)


また、岡山県倉敷市で倉敷絹織として誕生した現クラレという会社があり当時、大原聰一郎(オオハラソウイチロウ)という人が社長をしておりました。

戦後GHQによる公職追放が経済界にも広げられていた時、公職追放には7段階あり、その一番下のG項というのが、「戦争協力者、軍国主義者及び極端な国家主義者」と規定されていました。大原は戦時中、軍需産業に携わる社長であったが、このG項に該当するとは誰も思っていませんでした。しかし、大原は「GHQによる戦争協力者の公職追放は、日本という国が誤謬を犯したことに対する裁きだと考える。私は日本の国家の要請に従って戦争に協力した。国家が誤謬を犯し裁かれようとする時、これに協力した個人として、その裁きから逃れようとは思わない」と自ら裁きを受けようとしたというエピソードがあります。結局この話は、当時の労働組合長が「では社長である貴方がいなくなったら貴方の指揮をまっている一万人の従業員はどうなるんですか」と説得され渋々止めたといいます。


この後、大原は世界初の新繊維「ビニロン」の開発に成功し日本繊維工業史の残る輝かしい業績を遺しますが、このビニロンの工業化には15億円の設備投資が必要でした。最初は額が大きすぎるためどこの銀行も融資をしてくれませんでした。しかし大原は当時日銀の総裁である一万田尚登(イチマンダヒサト)に掛け合い融資額を示し「一企業の利益のためにやるのではありません。日本の繊維業界のための大切な布石として始めるのです。そればかりでなく、戦争に負けて自信を失っている日本人の心を奮いたたせるためにも、純国産の合成繊維の工業化は何としても成功させなければならない。」このように一万田総裁に迫り、一万田総裁も断われば腹を切るに違いないと思える程の熱意に負けて、日本興行銀行をはじめ15の銀行の協調融資の音頭を取り、14億1千万円の融資を成立させました。翌年には一環工業でビニロンの創業式が盛大に挙行され、「ビニロン」の工業化が成功しました。


昔は大原のような一廉の人物と言われる経営者が大勢いました。責任は自分が取るし、私利私欲のために経営もしておりません。このことを現在の私たちは学ぶべきではないでしょうか。






文責 田宮 卓










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