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2011-02-27 21:26:31

第167回_堤康次郎_会社や仕事を選ぶな(就職が決まっていない学生に向けて)

テーマ:観光

大学生の内定率が約7割で4月から就職出来ない人が約3割もいるとテレビや新聞で報道されている。大手企業は採用枠が少なく倍率が物凄く高くなるためなかなか内定をもらうのが至難のようだ。しかし中堅企業やベンチャー企業では逆に採用枠があるのに学生の応募が少なく採用出来ずに困っているという。


テレビのインタビューでまだ内定をもらえていない学生が答えていた。大手企業ばかりを受けて結局内定をもらえなかった。今年もう一度大手企業を受けるが、中小企業を受けることは考えていないという。何故大手企業なのかの問いに「大手の方が安定しているから」と何とも漠然とした答えである。


私は職があるのであれば就職浪人などせずにまずは働くことを勧める。何故なら働かないといつまでたってもスタートラインに立てないからである。もう一年頑張って希望の会社に行ければいいが、可能性は低くなんの保障もない。就職浪人は社会にとっても本人にとっても大変なロスでもったいないことである。

私自身、守衛のアルバイトから国会議員の秘書になった経験があるが、思わぬ人との出会いや仕事の出会いは働くことでチャンスが来るのであり、働かなければ何も起こらない。希望の会社や仕事ではなくとも一生懸命働くことで道を切り開いていった人達は過去に幾らでもいる。




敗戦から2年後、就職しようにも新たに採用などする会社などない時代である。「便所掃除と風呂番ぐらいはできます」といって軽井沢のホテルに雇ってもらった男がいた。


彼は仕事にありつけたことに喜び、来る日も来る日も早朝は便所掃除、夜は風呂の掃除と与えられた仕事に没頭した。


朝の5時便所掃除をしていると、そんな時決まって顔を合わせる客がいた。その客は常連客のように来ており、そのうち客から声をかけられるようになる。「早くから御苦労だな」、「なんという名前かね」「はい駒村と申します」実は、この声をかけた客こそ西武グループの創業者、堤康次郎(つつみやすじろう)その人であった。当時はみな「大将」と呼んでいた。


それから風呂場でもこの大将と顔を合わすようになり、頼まれて背中を流すようになる。「どうして三助(さんすけ)ができるのか?」「はい奉公をしていた時に覚えました」「どう教えられたか?」「はい、アカを落とそうとせず、心臓に向かってこすってやると気持がいいからそうしろと教えられました」「ほう、なかなかいい勉強をしているな」とこの大将は駒村のその実直ぶりと勉強の仕方に感心したようだった。


それから数年後のある日、駒村はグリーンホテルの支配人から呼び出された。何事だろうと支配人室に出向くと、支配人に「駒村君、君が僕の後任だ」駒村は最初何を言われているのか分からずキョトンとていると、「これは大将じきじきの人事だ、有り難くお受けして粗相のないように、まあ頑張れ」



清掃員が支配人に抜擢されたのであるからホテルじゅうが大騒ぎとなったことは言うまでもない。





最後に阪急グループの創業者、小林一三(いちぞう)の言葉を紹介しよう。


「下足番を命じられたら、日本一の下足番になってみろ。そうしたら、誰も君を下足番にしておかぬ」

 


文責 田宮 卓 




参考文献


上之郷利昭 「堤 義明の人を活かす!」 三笠書房






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2011-02-18 19:45:21

第166回_出光佐三_部下が命をかけてくれるリーダーとは

テーマ:石油

「大事(だいじ)をなすには必ず人を以(もっ)て本(もと)となす。今、人、吾(われ)に帰するに、吾何(われなん)ぞ棄て去るに忍びんや」三国志



蜀(しょく)に向かう劉備玄徳(りゅうびげんとく)を慕って多くの人が付き従ってきたが、曹操(そうそう)の追撃が厳しい。無事に蜀まで逃れるため、足手まといになる人々を置き去りにするように、諸葛孔明(しょかつこうめい)は玄徳に進言したが、そのときの玄徳の返答が上の言葉であった。


「大きな仕事を成し遂げるには、なによりも人間が大切である。今これだけの人々が私を慕ってついてきてくれたのだ。それをむざむざと見捨てて行けるか」という意味で、孔明は玄徳の器の大きさに改めて感じ入り、己の不明を恥じたとされる。




明治維新の立役者で国民的人気がある西郷隆盛は島流しにあい、その後、釈放の使いが来たとき。西郷はそばの島に流されている後輩の村田新八(しんぱち)を、藩命を無視して助けた。村田のところには釈放の使いが来ていなかった。そこで西郷は自分を連れに来た釈放船を村田のいる島に強引につけさせ、村田を救出したのである。無論これは越権行為であった。


しかし西郷には「同じことをしたのに村田を置いたまま自分だけ助かるわけにはいかない」と思った。村田は感動し「これからは、西郷さんのために俺は命を棄てる」と決意したという。


西郷はこういう温かい大きな心を持っているからこそ、命をかけてくれる部下がおり国民的人気があるのであろう。




日本の経営者にも昔は劉備玄徳や西郷のように心の大きな人がいたが最近はめっきり少なくなったかもしれない。こういう経営者の代表ともいえるのが、出光興産の創業者、出光佐三(いでみつさぞう、明治18年~昭和56年)であろう。

 


空襲で完全に焦土化した東京のど真ん中、銀座近くにあった出光興産の5階建て社屋は1階が焼けただけで奇跡的に残った。終戦からちょうど1ヶ月目、その2階に店主出光佐三と、東京在住の重役たちが集まった。今後の会社のことを話し合うためである。



明治44(1911)に出光佐三(いでみつさぞう)が創業した出光石油は、戦時中は、朝鮮、満州から華北、華中、華南、南方地方地域まで、手広く営業活動を行っていたが、敗戦でその拠点の全てを失った。投じた資金も無に帰した。残ったのは250万円ほどの借金だけである。


一方、内地にあった営業施設は、政府の統制機関に接収されたままで、出光の自由にはならなかった。つまり、この時の出光は、仕事の口を全て奪われた、いわば開店休業の状態であったのである。


敗戦とともに海外基盤が全て吹き飛びそこから800人もの社員が引き揚げてくる。殆ど仕事のない状態では、その人たちに給与を払っていくことは出来るわけがない。「大量解雇はやもえない」という意見が幹部の中で飛び交ったのは当然であった。



しかし黙って重役たちの話を聞いていた出光佐三は目を開き言葉を発する。


「私は、君らの意見に賛成できない。馘首(かくしゅ)してはならないと思う。特に海外から引き揚げてくる者を整理しようとする考えには、反対だ」視線が、佐三に集まり、釘付けになった。


「彼らがどんな気持ちで、危険な外地へ出て行ったのかを、今一度思い起してほしい。会社を信用すればこそだろう。万が一の時には、会社が骨を拾ってくれるという気持ちがあったから、危険を顧みなかったのだ。文句を言わず、よく行ってくれたと私は今でも、彼らに感謝している。そういう人達を首になど、私にはできん」しかし「首を切らなければ、共倒れですよ」となお粘る幹部もいたが、佐三は一歩も引かない。


「社員はみんな家族のようなものだ。きみらは、食い物が足らんからと、家族の誰かを追い出したり、飯をやらないようにしようと言うのか。そんな薄情なことができるのか。事業は飛び借金は残ったが、会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後の事業を作る。仕事がないなら探せばいい。仕事をつくればいい。それをせずに、安易に仲間の数を減らして、残った者だけで生き延びようとするのは卑怯者の選ぶ道だ。もしその努力をみんなで精一杯やって、それでも食っていけなくなったら、その時は、みんな一緒に乞食にならおうじゃないか」


佐三の思いはただ一つ。内地と併せて1000人になる社員とその家族を、荒波の中に放り出すことが出来ないということであった。どんなことをしてでも、石にかじりついてでも、みんなを食べさせていかねばならぬ、この一念に凝り固まっていたのであった。

 


翌日から佐三自らが仕事探しに奔走した。電気の修繕、農業、漁業、印刷、醤油や食酢の製造。ラジオの修理、販売、業種や仕事内容には拘らない。石油統制が解除になるまで社員一丸となって歯をくいしばって頑張った。極めつけきが旧海軍のタンク底に残る石油回収であった。戦後放置してあったタンクは雨と泥をかぶり、ガス爆発の危険を伴う汚れ仕事。担い手のない作業だが「誰かがやらねばならない仕事」と引き受けた。全国8ヶ所での作業は一年数ヶ月を要したが、難作業の完遂は社員に自信を与え、自助の精神を植え付けた。以後、困難に直面した時「タンク底に帰れ」が出光社員の合言葉になる。



安易に整理解雇がされる昨今とは対極的だが出光興産は出光佐三のもと社員全員が結束して命がけで危機を乗り越えていった。



以上


文責 田宮 卓


参考文献


辻本嘉明 「馘首はならぬ仕事をつくれ」叢文社

日本経済新聞社 「20世紀 日本の経済人」 日経ビジネス文庫

船井幸雄 監修「ビジネスマンが読んでおくべき一流のあの選択、この決断」三笠書房










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2011-02-11 06:51:23

第165回_規格大量生産_最大の経済対策は人を育てることである_第2話

テーマ:政治家

第164回第1話の続き



1938年(昭和13年)、総力戦遂行のため国家のすべての人的、物的資源を政府が統制運用できる旨を規定した「国家総動員法」が制定された。それと同じくして限られた資本と、少ない資源で出来るだけ多くのモノを作ろうと考え規格大量生産体制が確立される。官僚主導であらゆる生産が規格化された。これらの体制は国の資源や労働力のすべてを戦争目的のために仕向けるために作られたものであった。



さらに教育で規格大量生産体制に適した人材をつくることが行われた。学校制度を拡げ、規格大量生産の現場に適した「協調性と辛抱強さに富み、個性と独創性の乏しい」人材の養成を行なったのだ。



そして戦後は敗戦の原因の一つに物量戦で負けたという考えがあり、規格大量生産体制に適した人材育成により力を入れられた。試験勉強で同じ知識を詰め込み、「協調性があり、個性や独創性が乏しい」人材を育てた。こうした人材が大手企業に集まり、官僚主導のもと、規格大量生産体制が実現し日本の経済は見事に復興を果たすことが出来た。

 

規格大量生産体制のもと、大量生産、大量販売を原理に生産コストを下げ売値を下げ大量に販売をしていく。このことを「規模の経済」というが、これが発揮されるのが自動車業界、鉄鋼業界、電機業界になり、これらの業界が戦後の日本の経済発展に大きく貢献したことは誰もが認めるところであろう。日本人は世界で最も規格大量生産体制に向いた国民であったといえる。


しかし地球の資源は有限である。環境破壊を土台に成立する規模の経済化は限界に来た。21世紀は規模の経済を追求しなくても利益を出せる体制を確立する必要が出てきた。そのためには今度は「個性や独創性」があり自ら仕事を創り出せる人材が必要になってきたといえよう。



ところがここ最近ずっと政治や政府が行ってきたことは無駄な公共事業や天下り先となる特殊法人や外郭団体を作ることであって人を作ることを怠ってしまった。その付けが今一気に来てしまったといえる。



菅総理は6月までに財政、社会保障、税制の議論をして纏めたいと言っているが、同時に人を育てることの議論も行ってほしいものである。本当の意味での経済対策をこれ以上ほったらかしにしてはいけない。 


文責 田宮 卓



参考文献


堺屋太一 「次はこうなる」 講談社

小島直記 「伝記に学ぶ人間学」竹井出版

郷 仙太郎 「小説 後藤新平」 人物文庫 学陽書房

桂 芳男 「幻の総合商社鈴木商店」 現代教養文庫

野口悠紀雄 「1940年体制」 東洋経済




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