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2010-02-23 22:10:47

第80回_瀬島龍三_大人物にみる平静な心

テーマ:商社

1977年に伊藤忠商事が安宅産業を吸収合併したが、当時は財界もマスコミも大騒ぎとなる大事件であった。当時の住友銀行の常務であった樋口廣太郎(後にアサヒビール社長)は住友銀行と取引先であった大手商社、安宅産業がカナダの精油所の問題がきっかけに、急に資金繰りが行き詰まり、自力更生は難しいと判断し伊藤忠商事に相談にいった。その時に最初に対応したのが副社長の瀬島龍三(元大本営陸軍参謀、元関東軍参謀、ソ連抑留後帰国し伊藤忠商事に入社)で、事態が重大であることを説明し、なんとか合併して欲しいとお願いをした。冷静に話を聞いていた瀬島が、説明が終わった後に最初に発した言葉が忘れられないという。「樋口さん、この話は2年前だったら、検討させていただくのですけれども、今は、私たちも色々と事情があって難しい。しかし、私のところに話を持ってきてくれたことは大変光栄です。」ととても淡々とした口調で話をされるので、その冷静沈着な表情をみて「この人は並の人ではない」と樋口は感じたという。経営者とて人間である。今まで経験したことのない事態に直面すれば、事の重大さと不安感で、普通の精神ではいられないはずである。最終的には当時、社長だった戸崎誠喜が「検討しよう」と決断を下し吸収合併することになったが、業界にとっては天地が入れ替わる程の提案にもかかわらず全く普通に話を始められた瀬島には計りしれない迫力を感じたという。


古代ローマの政治家で哲学者のカトーは「最も深い川は静かに流れる」と名言を残した。川は浅ければ浅いほど、サラサラと音を立てて流れていくが、深い川は音もなく、静かにゆったりと流れる。小物は小さいことでガアガアと騒ぐが、大人物たらんとするのには、静かに黙々と、ゆったり流れる気分で事に対処することが大切であると言います。


また、カナダが生んだ偉大な医学者、教育家のウィルアム・オスラー(1849年~1919年)は古典を愛読していたが、歴史上最も優れ、賢帝として最も誉れの高いローマのアントニヌス・ピウスにまつわる出来事で、当時彼がエトルニアのロリウムの自宅で死の床に伏せっていた時に、自らの人生観を要約して「平静の心」という言葉を座右の銘とした。この言葉に非常に感銘を受けたオスラーは、この世を燃えさかる城壁をまさに通り過ぎようとしていたアントニヌス・ピウス同様、我々もいかなる困難のなかでも、心の平静を保ち、物事に動ぜず、心の安きを得ることの大切さを学び、医師となる者は平静の心と慈みの心が必要なことを語り、それを自ら実践した。オスラーを偲んでアメリカ、英国にはオスラー協会があり、日本にもオスラー協会が1983年に発足した。オスラーは今でも皆の生きしるべとなっている。


日々小さなことで悩んでいないであろうか。私も瀬島龍三やオスラーを見習いどんな時でも平静な心を持てるよう努めていきたいと思う。



文責 田宮 卓  






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2010-02-21 09:48:52

第79回_チャーチル_先人の言葉に学ぶ

テーマ:外国人

「われわれは自分たちの建物をつくりあげる。すると今度はわれわれがつくった建物がわれわれをつくりあげる」1940年から1945年、1951年から1955年の2度にわたって、英国の首相をつとめたウィンストン・チャーチルが投げかけた言葉である。


戦後、戦災を受けたイギリスの国会議事堂を改修する時に、元通りの姿に戻すべきだと主張して、議事堂を近代的に改修する案を退けたが、議事堂の姿を変えることによって議会精神までもが変えられてしまうことへの危惧の表明であったとされる。


チャーチルの優れた文章及び演説は「英語とともに残る」とノーベル文学賞を受けた程だが確かに彼ほど優れた名文を残した政治家はいないであろう。彼は人間と環境総体との相互関係に関する考えを上記のような素晴らしい文章で表現したと言われます。生物学者・疫学者としてノーベル医学生物学賞を得た、ルネ・デュボス(19011982年)は、このチャーチルの言葉は、人間生活と環境とのあらゆる面について当てはまるものだといいます。


日本ではマネージメントの神様PFドラッカーを慕い、東京大学教育学部で心理学を学んでいた江副浩正が在学中に求人広告の仕事を手掛け現代のリクルートを創業しました。リクルートの社員は猛烈に働き数々の人材が排出されていきますが、リクルートの社員の机の前には「自ら機会をつくり出し、機会によってみずからを変えよ」というプレートが置かれております。江副が自ら実践し社員皆にも実践させたこのフレーズはモチベーション経営を集約した言葉としてあまりにも有名である。


政治家、医学者、実業家とそれぞれ表現は違えども同じようなことを言っているようでて面白い。それぞれが非常に含蓄のある言葉であり、人によって解釈は違うかもしれないが、私は人は環境によってつくられるが、その環境は自分自身がつくり出すものと解釈し日々己を磨いていきたいと思う。

               


文責 田宮 卓






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2010-02-15 09:46:28

第78回_野口英世_情熱が人の心を動かし前途が拓く

テーマ:研究者

本当にこれをやりたいという情熱が人の心を動かし運命を切り拓いていくことがあるようです。本気でやりたいと思うのであれば思いきって行動に移してみるのも一つの方法かもしれない。


1900年(明治33年)、ある日本の青年医師がアメリカのペンシルバニア大学の助手になり医学を研究したいと思い、僅かな寄付金を元手に単身アメリカに渡った。フレキスナー教授は目の前に立つ日本の青年医師が最初誰なのか分からなかったが、以前東京に行った時に通訳をしてくれた青年であることを思い出した。

「お約束通り先生の下で勉強するため、日本からやってまいりました。」そういわれても

フレキスナー教授は約束した覚えはない。たしかにアメリカに来い、といったかもしれないが社交辞令であり本気で来るとは思わなかった。もし来るとしても事前に連絡をとり一応の了解をとるのが礼儀である。それが大きな荷物を持って一方的に押しかけてきたのだ。

「一生懸命働きますから助手にしてください」「この大学の研究生は皆自費で勉強しているが、あなたはその費用はあるのか」「残念ながらありません」「じゃあどうするんだ」「ここで働かせてもらいながら勉強したいと思います」「突然そんなことを言われても無理だ、直ぐに採用はできん」いかな教授といえども大学本部に相談せずに助手を雇うことはできないのである。「私はなんでもしますから頼みます」フレキスナー教授は困惑するがこの青年も必死である。ここで追い返されたのであれば何のためにアメリカに来たのかわからない。しかしこの青年の図々しさには呆れるが、はるばる日本から来たものを直ぐに追い返すわけにもいかない。結局この青年を当時、不気味さと危険さで誰もやりたがらなかった毒蛇の蛇毒を抜く係としてポケットマネーで雇うことにした。この青年は死にものぐるいで働き勉強した。そして蛇毒というテーマの研究が与えられ、研究の成果を論文にまとめた。この論文はフレキスナー教授の上司であるサイラス・ミッチェル博士に絶賛され、この青年は一躍アメリカの医学界で名前が知られることとなった。この青年が世界的な細菌学者となる野口英世である。


また話は変わるがソフトバンクがまだベンチャー企業と言われていた頃、採用面接にジーパンで受けに来た兵(つわもの)がいたそうですが孫正義社長は直ぐに採用したという。よはやる気の問題であると孫社長はいいます。


本当にやりたいということがあれば、無理だと思わずにまずは行動に移してみると思わず前途が開けることがあるかもしれない。 

               


文責 田宮 卓





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