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2009-08-29 08:42:40

第54回_星一_人生に大きな影響を与える本との出会い

テーマ:製薬

日々、転職希望者と接していると実に皆さん悩みが多い。仕事のこと、家庭のこと、将来のキャリアのこと、中でも多い悩みは職場の人間関係かもしれない。しかし愚痴を言っていても何も変わらない。そういう人達に私はとにかく本を読むことを勧めたい。


1871年(明治4年)、中村正直という男によって翻訳された本が刊行された。この本の

内容の一部分を記すと、

「シェイクスピアは貧しい家に生まれたが、小学校の助教、代書の手伝いなどをしながら劇作家になり、人々の品性の向上に貢献した。


はじめて地動説をとなえた天文学者コぺルニクスは、パン屋の息子である。地動説を発

展させ、惑星の運動法則を発見したケプラーは、居酒屋の子である。それに触発されて万有引力の学説を完成させたニュートンは、貧しい農民の子である。階級の低い人たちの発明によって、英国の富の大部分が築かれた。それを除外したら、あとにほとんど残らない。


ジェームズ・ワットはスコットランドの大工の子、生まれつきの天才ではなかったが、勤勉と工夫と熟練とによって、蒸気機関の実用化に成功した。それを活用して、紡績工業を育てあげたのが、リチャード・アークライトである。理髪師だったが、独立して毛髪を買ってカツラをつくる商売をはじめ、さらに興味の対象を毛髪から繊維に移し、紡績機械を作りあげた。最初は馬で機会を動かしたが、水力利用に変え、さらに蒸気機関を組み合わせることにより、さまざまな困難と戦いながらも、産業革命を推し進めた。


ジョージ・スチーブンソンは炭鉱の子であった。父と働きながら、石炭を運ぶトロッコにワットの蒸気機関をとりつけたらと思いつき、蒸気機関車を作り上げた。交通革命のはじまりであった。・・・」


この本を読んだ、福島の田舎で貧しい農民の子として育った星一(ハジメ)という青年は大いに触発され、自分も勤勉と努力次第で立志伝中の人物になることができ、世の中に大きく貢献できると思い、20歳の時まずは最先端の文明を知ろうと単身アメリカに渡った。住み込みで働きながら大学の学資を稼ぎコロンビア大学を卒業します。持前の勤勉性、行動力、そして英語力、アメリカ事情通であることを武器に伊藤博文、野口英世、新渡戸稲造、岩下清周(北浜銀行頭取)等、大物政治家、学者、財界人と交流を図るまでになります。そして31歳の時、製薬事業を行う星製薬株式会社を創業し実業家として大活躍していきました。


この本はあの有名な「西国立志編」です。当時この本を読んで発奮し日本の産業発展に貢献した人達がたくさんいました。もしも明治の初期に西国立志編が刊行されていなかったら、あれだけの産業が次々と興ったかどうか分からないでしょう。


古今東西を問わず経営史、経済史をひも解いていくと大成する人には必ず2つの出会いがあります。人生に大きな影響を与える人との出会いがあり、人生に大きな影響を与える本との出会いがあります。


そういった本に出会うにはまずは多くの本を読むことでしょう。人間生きていれば誰でも悩みがあり、落ち込むことがあります。しかし落ち込んでいても何も前身はしません。その暇があれば本を読んでみてはどうだろう。その本がきっかけで大きく運命が開けるかもしれない。



文責 田宮 卓










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2009-08-16 08:23:32

第53回_上原正吉_人材育成に力を入れ日本一の大衆薬メーカーに

テーマ:製薬

1897年(明治30年)、読売新聞に尾崎紅葉の「金色夜叉」が連載され、活動写真(映画)が公開された。その年に埼玉県北葛飾郡田宮村で上原正吉という男は生まれた。



高等小学校を卒業すると東京に住む兄孝助の元へ身をよせ就職先を探すことに決めた。足が棒になるまで歩き廻り市ヶ谷にやってきた。そこで目に入ったのが「石井薬品商会」「大正製薬所」の2つの看板でそこに「所員募集」の張り紙が貼ってあった。とにかく入ってみようと扉を開けて、経営者の石井絹次郎に面会を申し込んだ。石井はこの青年を気に入り直ぐに採用が決まり翌日から上原はここで働くことになった。石井絹次郎29歳、上原正吉18歳の時である。



当時の大正製薬所の従業員は、男性5名、女性2名いるだけで、「児強剤」「女神」など数種の薬品を製造して関東各地の薬問屋に卸していたに過ぎない。そんな中、上原は伝票の整理、帳づけ、荷造りなど任され精力的に働いた。自ら営業を志願して外回りをはじめる等、メキメキと力を付けていった。そして無名の商品や新商品をより多く売るにはどうすればいいか研究に研究を重ねた結果、上原は無名薬品の新しい販売政策として「特約株主制度」の導入を考え出した。問屋を通さない直接販売の実施である。



これは、大正製薬所を株式会社にして各薬店に大正製薬所の株を持ってもらうというもので、この方法のユニークかつ重要なポイントが「株の配当よりも株主の販売高に対する配当に重点を置くこと」であった。この案をまとめ石井に提案すると即座にこの案を採用することとなり昭和355日「株式会社大正製薬所」として新たに発足されることになった。特約株主制度の導入は功をそうし、着実に株式会社大正製薬所は関東で基盤を築いていきます。



そして全国メーカーになるためにはどうしても関西に斬り込んでいかなければならず大阪に支店をつくることになった。しかし大阪は薬業界としては東京より歴史は古く、豊臣秀吉のころから道修町に軒を並べていた、武田、塩野義、田辺等、有名メーカーがずらりと顔をそろえているので関東メーカーは割り込む隙がない。事実、大正7年に大阪支店を開いたことがあったが新たな地歩を築くことができず閉鎖を余儀なくされていた。再度のチャレンジであるが、今回はエースの上原を大阪支店長に据えることになった。



大阪に来た上原は特約株主制度を引っさげ、問屋を通さずに直接販売を実施する。「会社はお得意様の共同工場である」という観点に立ち販売網を広げていきます。また、当時大阪の薬問屋は昔から丁稚制度をとっていて、「春どん」「芳どん」と江戸時代と同じ奉公人扱いをしていた。上原はこの身分差別を廃止して何々君と呼ぶようにした。そして何よりも上原が力を入れたのが社員教育である。外回りから営業マンが帰って夕食を済ますと2階に全員集まり、上原は毎晩夜更けまで、商品の知識、お得意先の訪問の仕方、特約株主制度の合理性、有利性を従業員に十分理解出来るように講義を行った。この講義は「上原学校」と呼ばれるようになった。



上原の講義を受けた従業員は皆がむしゃらに働き、販路は確実に広がっていった。そしてついに大阪支店は東京本社の売り上げを抜いてしまします。



その後東京本社は倒産しかかるが、上原が東京本社の再建に取組むことになり見事に再建をします。その後は代表取締役社長に就任し、株式会社大正製薬所(昭和23商号を<大正製薬株式会社>改称を日本最大の大衆製薬メーカーに育てあげます。上原は大正製薬所に入店してから引退するまで65年間、大正製薬に携わるが、その間、政治家としても参議院議員を530年勤める。昭和40年発表の全国高額所得者番付では松下幸之助を抜いて1位となります。



上原は特約株主制度、丁稚制度の廃止、また学歴や年齢にとらわれない実力主義等、斬新な制度を次々に導入して大正製薬所発展の土台を築いていきますが、発展の一番の要因は「上原学校」と呼ばれたが人材育成に徹底的に力を入れたことではないだろうか。要は人であると上原は言います。



企業は即戦力となり優秀な人材を採ることばかりに目が行くが、上原のように人材の育成にも目は向けてみてはどうだろうか

 

文責 田宮 卓



















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2009-08-09 08:20:58

第52回_山内健二_真に社員を大切にする経営者

テーマ:創業者、経営者

山之内製薬の創業者、山内健二は社員のモチベーションを上げる天才であった。幾つか実際の社員の証言でそのことを記してみよう。

 

山之内製薬の福岡支店に勤務していた社員が1962年(昭和37年)8月の人事異動で、札幌支店の営業管理課長を命ぜられた。赴任の途中、本社への挨拶を終え、翌19日(日曜日)、社員とその家族4人が札幌行きの138分日本航空に乗るため羽田空港改札口の雑路に立っていると、突然、山内社長が現れたという。「大変だね」と社長に声をかけられた社員は、お客様のお見送りかお出迎えのために見えたものと思い、「社長のお客様は何時でございますか」と尋ねてみた。すると社長は「いや、今日は君の見送りに来たんだよ。」と言われたという。社員は感激してお礼を言って改礼を通り、大分歩いて曲がり角に来たので後ろを振り返ると、社長はまだ手を振っていたという。

若い新任の課長のために、会社の社長が日曜日にわざわざ羽田空港までお見送りに来てくれた感激は生涯忘れないという。この社員が大いにやる気になって札幌に向かったことは言うまでもない。 

ある部下は東京の経堂に下宿をしていた頃、役員会が長引いて遅くなったので新宿まで山内会長(当時の肩書)の車に同乗させてもらった。すると山内会長はついでに君の下宿まで送ろうと言って、わざわざ遠回をして送ってくれたという。その時会長に「万一、君が病気になった時、下宿先ぐらい知らないようでは困るから」と言われたという。この部下は会長の親心に似た優しさをこの時ほど胸にしみたことはないという。

また山内社長は、平社員の名前も覚えており機会あるごとに「君の誕生日は何月であったな」「君の子供は元気か」と声をかけたという、新入社員に対してもエレベータに乗ってくると「○○君、今日から出社かね」と声をかける。無論、声をかけられた社員は感激し期待にこたえようと大いに頑張る気になったという。

そして山内社長は直筆の手紙で部下、社員に対して常に祝いの手紙、慰労の手紙を具体的なことを言及して送り続けたという。

当時、山之内製薬では山内社長に一言声をかけられることで大いにやる気になり、生涯その言葉が励みになったという社員が沢山いたといいます。

明治、大正、昭和の経営者には山内社長のように社員を本当に大切にし、心を捉えることが出来る人物が多かったです。そういう経営者は社員から信頼されて慕われておりました。今の自分があるのはあの方のお陰、あの方の期待にこたえるために頑張ろうと思ってくれる社員に経営者は支えられておりました。

現在このようなタイプの経営者は少なくなっている気がしますが非常に残念です。



文責 田宮 卓

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