
その間に義朝に隙をみせ、義朝が軍を起こすと同時に・・・・
熊野の平氏を引き連れユーターン、六波羅の重盛と挟み撃ちで義朝を滅ぼし、覇権を得ようと云うもの・・・・
正に、歴史の舞台では、絵に描いたように進むのであるが・・・
嵐山光三郎氏は、この案を西行が清盛に説いたと書いている・・・????
ただし、条件として配流されている讃岐の崇徳院の赦免を要求したと?
このとき既に辞世とされる
『願はくは花の下にて春死なん その如月の望月の頃』
と、詠んでいたと云うが・・・・
西行のイメージが単なる歌人というよりも、哲学者的英雄像に変わって来た???
ほんまかいな~強すぎて、爽やか過ぎる西行さん???
まだ、本も半ば成りしが!