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『老子』は

「道の道とす可きは常の道に非ず」

「名の名とす可きは常の名に非ず」


という文から始まります。

『老子』については学者から一般の

人までさまざまな解釈、解説がなさ

れています。

その文に触れた人がそれぞれに思い

を馳せ、心に刻みこむものを見いだ

していく。そうさせるのが、こうし

た書物の役割でもあるように感じま

す。


博識である人が研究に研究を重ね、

その文の真髄に迫ろうとしても、

実際のところ真実は定かにはなりま

せん。ただ学問としてでなく、「道」

を探求し実際に悟りへと到達したな

らば、その本質は簡単に解する事が

できるのだと思います。


2年ぶりに、「無為自然」を軸に、

あらためてその内容に触れてみて、

學んできた事と併せもちながら、

わたしの中の「道」を表してみたい

と思います。

世間一般とは違った解釈などがあり

ましてもどうぞご容赦くださいませ。


まず第一章ではこの世界(相対世界)の

始まりが表されています。

天地が開闢し、「天と地」から始まり

名をもつ世界となっていきます。

本来一つのものが二つにわかれ、

名をもつ、とされています。


二元世界は名をもつ世界であり、

欲望のつきぬ世界です。

無為自然=無欲であるならば、名をも

たぬ世界こそが実となります。

この事は非常に興味深いです。

昨日も少し書きましたが、名をもた

ぬ荒木の中に無為自然を見いだしま

す。


考えてみれば、名を成立させる事は

分離を指しますから、根元的に一つ

であれば名をもつ必要性もないわけ

です。


わたしたちの世界では名をつける事

で他との区別をはかります。それが

当たり前であって、その事に異議を

唱える人は誰もいません。つまり、

世界の始まりから二元の構造で成り

立っている世界ですから、構造その

ものに疑問を呈する事はなかったの

です。そして、名をつけ「わたし」

と「あなた」に区別する事で「自我」

が発生し、さまざまな欲望が起き上

がっていくのです。


ですから、無為自然の実践は、元々

の二元構造の変換が必須となるのだ

とわかりました。この事をしっかり

心に留めておく事が大切です。


「道を道とした瞬間、それは本来の

道ではなく、名をつけて区別した

瞬間、それは本来の姿ではなくなる」


『老子』はそこから始まっていくの

です。

名もなき道。それは名のある世界も

のみ込んで根源の「一」へと還る道

であるのです。


わたしはそんな風に捉えています。


名もなき荒木のように、ただあるが

ままに存在する。

そのために、何者でもない意識を常

に持って事を為すようにしていきま

す。


「無為自然」名もなき道、を往く。


今日もお読み頂きありがとうございま

したm(_ _)m