母から追い詰められていました。


電話で延々と文句を言い、留守電にすると録音時間が終わるまでずっと話している。


心の平静を保つ為に、多分出す事のない醜い手紙を書きました。

書いているうちに、感情が高ぶって泣いていました。

そして、知恵熱ではないけれど、高熱が出てちょっと大変な事になっていました。


人を憎む心は、とても醜く、心だけでなく体をも蝕んでいくのです。

ましてその憎む相手は自分を育ててくれた両親。

愛されたくて、わかって欲しくて、受け入れて欲しくて、のた打ち回っていた相手。


お父さん、お母さん。

私はもう壊れてしまったかもよ。

壊れた娘の事は、もう忘れて下さいよ。

私の心の原因は、既に20年近く会う事も、声を聞く事も出来ない長兄にもある。


長兄にとって、妹の私の存在はどの程度で、どんなものなのかは今となってはもうまったくわからないのだけど。

そのわからなさがさみしいのだけど。


今でも、もう姿形はは変わっている筈なのに、私の中の長兄は22歳のままで…

似た体型の人を見ると今でも目で追ってしまう。

長兄が当時勤務していた会社を見ると、なんだかせつなくなってしまう。


長兄は中学生だった私を自転車の後ろに乗せて、誇らしげにここが僕の職場だと話してくれた。


両親はそんな風に職場を教えてくれた事など無かったから、とても新鮮な経験だった。

新築されて間もなかったその職場のガラスは、春の陽射しを受けてこれも誇らしげに輝いていた。


長兄の会社がこんなにせつなさを感じる理由の一つは、もし現在も勤務していたなら、ここが唯一の今の長兄と私の接点だからだ。

他の連絡先は一切知らない。でもそこは長兄の大切な職場。おいそれと私用電話など出来る筈も無い。

17年前に一度だけ思い切って電話をした事がある。

そしてそれが長兄の声を聞いた最後の日だ。


私は悲しい位愚かな事をしようとしている。

でも、もし今長兄に会えたなら、どうしても聞いてみたい事がある。

もし話すことが出来たなら、少しでも時間を作ってもらえるなら、私は勇気をもらえると思う。


生き別れは苦しい。とても苦しい。長兄の事が好きだったからこそ苦しい。


私は両親にこの苦しさを味わわせているのだろうか。


カレンダーだけは日々確実に進んでいきます。

幸いな事というか、予測のとうり父は順調に回復していると、義姉が知らせてくれます。

父からも、母からも何の連絡も有りません。


そして私は、日々の慌ただしさに、ザラザラした心を抱えつつ、淡々と目の前の事を片付けていくだけの暮らしです。


骨折から入院し、回復傾向にあった親戚が亡くなりました。

直接の血縁が有るわけでは無く、孫世代の幾人か居る嫁のなかのひとりと言う私の立場は、働くかそうでないかのどちらかになる訳で。

私は働く立場になりました。


そして、自分の位置と、今の幸せを実感する事が出来ました。

夫の両親はあんな話の後なのに、父をほんの1分でもいいのだから見舞うようにと、そう言う義父が頼ってくれる。

義母も。

そして夫の親族も。


ざらついた心は、夫の身内によって少し角を削ってもらえました。

この夫と、義理の両親、伯父伯母達に、私が望んでも得られなかった、「ここにいて欲しい人・ここに居ていい人」として迎えられている事が、その場にそぐわない安堵感を私にくれました。


亡くなった親戚は、孫世代の嫁では順番では真ん中辺りになる私を、○の嫁では無く、○子と呼んでくれました。

伯父によるとこれは私だけだったそうで。

既にやや年齢特有の症状が出始めていた親戚に、そんな風に思っていて貰えた事が、なんだか不思議で。

嫁して十年。

決して出来た嫁ではないのだけど、生まれた家で過ごした時間より短い時間なのだけど、ここに今居場所があることが、夫の祖父母や今回亡くなった親戚がくれたものなのだと思います。


私がザラザラしていたら、このやさしい人たちを傷つけてしまうかもしれない。

きっと傷つけてしまう。


嵐が吹き荒れていても、なんとか角を持たずにいたい。

もう誰も傷つけたくないから。

私自身も傷つきたくないから。

今週父の手術は予想の通り無事に終わり、これまで避けてきた事に向き合う必要が出来た。


私は夫の両親が大好きだ。

愛情を持って夫を育て、義妹を育て。

私のことも、義妹の夫のことも我が子のように扱ってくれる。

もう亡くなった母方の祖母も、「○ちゃんは私の孫だから」と言ってくれた。


そんな義父は2004年の夏胃癌に倒れた。

幸いなことに初期で、内視鏡手術で回復も早かった。

ただ、この頃は私は実家と没交渉ではなかったので、私の両親が見舞いに訪れていたことも有り伝えない訳にはいかない。

でないと夫の両親が恥をかいてしまう。

偶然双方の両親共に知る人もいるし、いつか噂で義父の耳に届くなら、私が伝えておく事が正しい事だからだ。


義母はきっと驚いて、話が成立し難いような気もする。夫もまず義父に話すようにと言う。

義父にいつものように会いに行き、父の癌と、実家との没交渉を伝えた。

そして、この告白の3日前に、母と決定的にぶつかっていた事も私の告白の力にはなった。


距離をおく事に決めた、その内容を全て義父に話す事は出来なかった。

出来る筈が無い。

そして、私はまだ両親を求めていて、愛している事を思い知ってしまった。

全てを伝える事は、両親の悪口を直接口に出して言ってしまう事だから。呪ってしまう事だから。


話の後、夫も合流し義父と3人で食事をした。

義母は遠来の妹である叔母を送りに空港へ行っていた。

御馳走になり、義父と別れてから義母に電話をした。

義母には「そんな悲しい事言わんとき」と電話口で私を叱った。


確かに私は人間として当たり前の事が出来ていないのだと思う。

自覚している。充分にわかっている。

でもこの思いは行き場が無く、私を縛り付ける。

それこそ息の出来ない程に。


今、とても苦しい。

学校へは路線バスで通うことにした。


もう身長が伸びることも無いだろうと、自分の体に合った制服。

正門周辺には、花見ポイントになる程の満開の桜。

入学時には花吹雪となり、さくらに歓迎されているようなそんな気がした。


案外自由な校風に、広々とした校舎、裏手には森。


実習棟での初めての授業の時、うぐいすの声が聴こえた。


なんだか、とても楽しいことが始まる予感がした。


これからここに通う。

その当たり前の事が、とても嬉しかった。