今日の聖餐会はzoomで行われました。
今日のお話を忘備録として残します。
「聖典が教えるミニスタリング」 7分
2018年12月号のリアホナに
「ミニスタリングを行うとは、人を愛し、世話をし、救い主が今日私たちと共におられたらなさるであろう事を行うことです。
ミニスタリングは人が天の御父の愛を感じるのを助け、霊的、物質的必要を満たす一つの方法です。」
と書いてありました。
そこで、聖典の中からいくつかご紹介したいと思います。
マタイ20:28
それは人の子が来たのも仕えられるためではなく仕えるためであり、また多くの人の贖いとして自分の命を与えるためであるのとちょうど同じである。
では、主はどのように人々に使えたのでしょうか。
3Ne17:7
あなたがたの中に病気の者がいるか。彼らをここに連れて来なさい。足の不自由な者、目の見えない者、足の悪い者、手の不自由な者、重い皮膚病にかかっている者、体のまひしている者、耳の聞こえない者、あるいはどんなことでも苦しんでいる者がいるか。彼らをここに連れて来なさい。癒してあげよう。わたしはあなたがたのことを哀れに思い、わたしの心は憐れみに満たされている。
そして9節には
するとイエスは、御自分のところに連れて来られた者をことごとく癒された。
また3Ne17:21〜22では
そして、イエスはこれらの御言葉を語ると、涙を流された。群衆はそのことを証した。また、イエスは幼い子供たちを一人一人抱いて祝福し、彼らのために御父に祈られた。
そして、イエスはこれを終えると、また涙を流された。
この時に集まった群衆は2500人くらいいました。
その中で主に直接癒やされた人の数はどれほどだったでしょうか。
それでも主は一人一人に時間を割き、話に耳を傾け、慰め励まし、癒しを与えられました。
また、子供たち一人一人を抱いて祝福し涙を流されました。
主の涙は人々への愛と憐れみが溢れたんじゃないでしょうか。
現代の預言者も同じように愛を示された事があります。

アルマはモルモンの泉のところで人々にこう言いました。
モーサヤ18:8〜10
あなたがたは神の羊の群に入って、神の民と呼ばれたいと願っており、重荷が軽くなるように、互いに重荷にを負い合うことを望み、
9 また、悲しむ者とともに悲しみ、慰さめの要いる者を慰さめることを望み、また神に贖なわれ、第一の復活にあずかる人々とともに数えられて永遠の命を得られるように、いつでも、どのようなことについても、どのような所にいても、死に至るまでも神の証人になることを望んでいる。
10 まことに、わたしはあなたがたに言う。あなたがたが心からこれを望んでいるのであれば、主からますます豊に御霊を注いでいただけるように、主に仕えて主の戒めを守るという聖約を主と交わした証拠として、主の御名によってバプテスマを受けるのに何の差し支えがあろうか。」
ベニヤミン王はこう言っています。
モーサヤ4:26
26 さて、あなたがたに語ってきたこれらのことのために、すなわち、神の御前を罪なく歩めるよう、日々罪の赦しを続けて受けるために、自分の持っている分に応じて、それぞれ持ち物もを貧しい人に分け与えるようにしてほしい。例えば、飢うえている人に食べさせ、着る物のない人に着せ、病人を見舞い、各々の入り用に応じて霊的にも物質的にも助けを与えることである。
では、どのようにすればいいのでしょうか?
3Ne14:12
だから、何事でも人からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにしなさい。これが律法であり、預言者である。
私達は人それぞれいろんな試練を経験します。
苦しいことや辛いことを経験し、それを乗り越えていくことで同じような苦しみや悲しみを感じている人の心に寄り添う事ができるんじゃないかと思います。
主はルカによる福音書22:32でこう言っています。
「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」
また、マタイによる福音書には
マタイ25:35〜40
35 あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、
36 裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。
37 そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。
38 いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。
39 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。
40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」
また主はこう言いました
ヨハネによる福音書15:12
わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
主がどのように私たちを愛してくださっているか、その事をよく知るようになると私達も人を愛する事が容易にできるようになると思います。
私も時々教会で子供たちや青少年の成長している姿を見た時や、
一生懸命努力している姉妹たちを見る時、またその努力が少しずつ実を結ぶのを見る時、その人への愛というか愛おしさで胸がいっぱいになって涙が溢れる事があります。
そしてそんな時は、天のお父様とイエス様が彼らをどんに愛しているかを感じる事が出来ます。
私たちがこの末日に生きて、同じ教会に集っているのは偶然でしょうか?
ミニスタリングシスターや、ミニスタリングブラザーとして同僚や担当する兄弟姉妹たちが与えられているのは偶然でしょうか?
私たち一人一人は弱いものでも、誰かのために祈る時、誰かのために働こうとする時、精霊が助けてくださるんじゃないでしょうか。
私たちにしか出来ない小さな事があるのかもしれません。
それを主に祈り求める事で気づく事ができると思います。
自分が大変な時でも誰かのために頑張っている人がいます。
いつも優しい言葉をかけてくれる人がいます。
こんな私のために祈ってくださる人がいます。
そんなふうに主の手となって働いてくださる兄弟姉妹に感謝しています。
あなた達をとおして主の愛を感じる事ができることに感謝しています。
天のお父様とイエス様が生きている事、また聖霊を通して導きを受ける事ができる事を心から証します。
イエスキリスト様の御名をとおしてお話ししました。アーメン