魂絵堂徒然草

魂絵堂徒然草

meditator's delight

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ユリ・ゲラーという超能力者がテレビに登場し、話題をさらったのは、私が高校生の頃だった。

 


ユリ・ゲラーがスプーンをとりだし、指で擦るとスプーンは飴のように曲がった。

テレビを観ている我々視聴者にもスプーンを持ってきて、

「同じようにやってみろ!」、


というので、テレビの前でスプーンを擦るという奇妙な風景が全国的に繰り広げられたのである。

 

その際、実際にスプーンを曲げてしまった子供が全国で数人出現した。


「思ったより簡単だ。こんなんでいいの?」

とつぶやいた少年が居た。

彼がスプーンを曲げられるという情報は、すぐにマスコミにキャッチされ、テレビ出演することになった。

「超能力少年清田くん」の登場であった・・・・。

 

 

当時の記憶はしっかりと鮮明であり、その常識を超えた現象に強い興味を持ったものだった。

私自身、それからしばらくして体外離脱体験という不可思議な体験をすることになり、それ以来、意識と宇宙の関わりだとか、意識と物質について、特に興味を覚えるようになっていった。

 


それから清田くんはTVに度々登場するようになるが、

ある時、清田くんの超能力はインチキだったと伝えられて、
潮が引くように彼の話題は消え去っていった。

 


がっかりする気持ちと裏腹に、自分の中に在る、世間の常識で縛られた強固な顕在意識は、いくぶんホッとしたのも覚えている。


意識が物質の根源に位置しているというのが、自らの体験によって辿り着いた答えではあるものの、そして、それを思考では理解したようなフリをしてはいるが、それはアタマノ中の理屈の世界であり、清田くんは、それを実際に見せてくれていたにもかかわらず、すぐに常識というヤツが、「ちょっとまった!」と立ち塞がってしまうのである。

 



出来ることならば、清田くんと懇意になり、実際にこの目でスプーン曲げを確認したかった。

そうすれば、自分の常識というバリヤーを吹っ飛ばせるのではないか?と思っていたのだが・・・・。

 

そして、40年の時が過ぎた。

 

今も、自分の中で、意識と宇宙はテーマであり、創作の源泉である。

 

40年を経て、自然に自分の願望は叶い、清田くんと会うことが出来た。

 

40年かかったが、それは、必要な時間であったのだろう。

 

18歳の時に体験した超常体験を皮切りにして、意識の宇宙で垣間見たアイデアやデザインをこの世に持ち帰って、作品として物質化させ続けてきた。

彼は、一瞬にして、それらの作品としなやかに融合することができた。

 

 

 

語り合う中で、彼の魂の遍歴を自分のことのように理解することも出来た。

世間に翻弄され、バッシングを受け、それでも自分自身を諦めず、輝く光に向かって進み続ける不良の求道者・・・。

 

 

念願のスプーン曲げも、じっくりと観察することが出来た。

あまりにアッサリと奇跡を見せられた。

 



「スプーンなんか曲げて、どうすんの?超能力があるのだったら、もっと役に立つことにつかったらいいのに!」

 

世間には、そういう批判が溢れている。


私は思う。
スプーンなんか曲げてどうする?というまえに、スプーンが念の力で曲がるということに

畏怖はないのか?と。

意識が物質に直接影響を与えている現場を観て、何故、そんなに過小評価ができるのか?と。

 

「スプーンなんか曲げてどうすんの?」
その答えを聞いてどうすんの?

 

その奇跡的な現象から、自分が何を受け取るか?

それが、問われているのではなかろうか?

 

 

 









 



BUDDHAM



私は絵描きであるが、そのインスピレーションのROOTSは、内面的な宇宙(インナースペース)で受信したビジョンにある。

 

夢だといってしまえば、それでおしまいかもしれないが、私が感じているのは、そこに垣間見る、この物質世界を形成する雛形のようなものの存在である。

 

自分自身が体験した体外離脱といわれる神秘体験。

それはかなり劇的な体験ではあるが、私自身は体外離脱そのものにこだわりはない。

私が尽きない興味を抱き続けているのは、それによってアクセスする次元の存在である。

 

それが、単なる脳内で起こる錯覚に過ぎないのか?

それとも、この現実世界を越えた次元は実在するのか?

 

 

 



宇宙は広大であるが、それは無から生じたと言われている。

それは膨張し、やがて収縮し、また無へと帰する。

 

我々の宇宙(太陽系)では人類が最先端かもしれないが、

宇宙には無数の物質や生命が同時に存在し、それに準じて、無数の意識が存在する。

地球ですら、今まで何度も文明が生じ、そして滅び去ったことであろう。

 

物質は消え去っても、意識エネルギーは消えることなく、しかるべき次元の階層に漂いつづけ、

そこには宇宙の記憶のすべてが畳み込まれているように感じる。

 




例えば、誰かが素晴らしい発明をする。

私は、その発明者の意識の流れをイメージしながら、

それは、貴方が考えたのか?貴方の発明なのか?と問いかける。

 

優秀な人物の思考の産物のように見えて、

実は、それはその人の脳が受信した宇宙の記憶ではなかったか?

もちろん、それを受信するのにもその個人特有の準備や能力があってのことだとは思うが。

 

 




現代社会では、夢などに浸っている人間は、ダメ人間のレッテルを貼られてしまうが、

実は、世間を形作っているのは夢なのだ、と私は感じているのだ。

 



自分は、夢の中からビジョンを持ち帰るのが得意だ。

絵画と言っても、それは夢の旅の絵日記のようなものだ。

惹きつけれたり感動したりした場面を再現しているのに過ぎない。

従って、コンセプトなどというものが先にあって、描いているわけではない。

この種の作品は、概念で理解できないかもしれないが魂に響く。

キュレーターの説明など無いので、観る者は、その魂の眼の視力を問われる。





根源から放たれる光、それを表現し続けたいと思う。


垣間見たあるカタチ・・・。

それは多次元に渡る高次元存在である。

その時は捉えたと感じ、その記憶の残像を頼りに、紙に書き写そうとする。



しかし、出来ない。



多次元のカタチを
2次元に描くということの難しさだ。

それはエネルギー体であり、多次元に渡り循環している。
しかし、その中心には無と、根源の光が輝いている。

 

そしてとうとう辿り着いたのが、このカタチであった。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

ブッダンを描きながら、感じ得たSTORY・・・。
神とは何か?それは、あなた自身である。

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キャンバスに油彩

80号
「Live Between」
或る日見た一夜の夢を1枚のキャンバスに凝縮。
生物の進化から、物質社会の繁栄。そして、輪廻転生と魂の流転・・・。







「夢みたいなこと言って。」
普通、夢は、取るに足らないマボロシみたいに
価値などないかのように扱われている。


しかし、私は、夢という現象に惹かれ続けている。
夢を見ることに価値を感じるようになると、眠るのが楽しみになってくる。
それこそ、最大級のエンターテインメントみたいになってくる。

思い通りにならない夢も良いが、明晰夢を見る場合は、その面白さは格別である。
夢の中では、時間の流れが速く、ほんの数分で数年いや数十年の時間が流れることもある。

明晰夢は、自分の意識が眼ざめており、
つまり自分の意志で夢の中の行動を決められる。
そして、時間の経過が速いということは、自分の意志で決めた行動の結果までを経験できるということである。


このような経験を繰り返した後は、
この現実世界と明晰夢の世界の境界があいまいになってくる。

「誰かが、確かにこういうことを言っていたな~。」

と記憶の表層に上がってくる過去の記憶が、
現実のモノだったのか?夢だったのか?わからないのである。

こんな感覚を持つこと自体、良いのか悪いのか?まったくわからない。
まぁ、これは単にボケているだけかもしれないが・・。
へたしたらやばいかもしれないなぁ~と思いながら夢を楽しむ毎日であるが、
もし、唯一、利点があると言えば、
夢の中で人生を学べたり、シミュレーションも可能になるということだろう。
つまり、実際の人生の試行錯誤と同様に、夢の経験を活かせるということか。




それと、あたりまえみたいだけど、わかったことがある。
この現実世界は、ありがたいことに自分の意志で行動できるということである。

自分で決めたらいいだけなのだ。
やりたいこと。生きたい生き方。行きたい場所。会いたい人。etc.etc.

決めたあとは、思考と肉体を総動員して行動するしかないけど、
まずは、決められるかどうか?だと思うのだ。







 



1995年頃?

キャンバスに油彩
80号
「MEMORIES」







体外離脱体験にも、いくつかの階層がある。

まずは、身体からズレる感じで分離し、上手くいけば全体が抜け出し、自由を得るような感覚の
離脱。  


 この場合は、まさに幽体がズレるという感じで、まだ肉体の感覚と同様の感覚があり、
視覚や聴覚や触覚さえも幽体に残存している。
唯一、「あれっ?」となるのは、幽体はすでに物質に作用出来ないので、変な感じなのである。
つまり、何かを持ち上げたり、ドアを開けたりするような物理的作用は幽体には出来ないのだ。

この時点で、肉体とは、実に便利な道具だな~と再認識したりする。

しかし、幽体は、飛ぼうとすれば飛べる。
このように幽体をともなう離脱では、フワフワと浮いて自分を見下ろすとか、壁を素通りして外に出るとか、そのような物理的距離やこの世の事象に幽体で接するという感じの体験が多い、



それとは別の離脱体験とは、幽体をも脱した離脱である。

この場合は、幽体のような重い感じの衣装さえ脱ぎ捨てて、
純粋な意識エネルギーになって生存しているのを感じる。
この次元の離脱の特徴は、距離や時間を越えていることだろう。

フワフワ飛んで、寝ている自分を見下ろすとか、そういうまどろっこしいものとは違い、
いきなり光速で次元のトンネルをワープするような感覚に近い。


ちょうど、映画で言えばスタンリーキューブリックの名作、アーサーCクラークの「2001年宇宙の旅」のあのシーンに近い。

行き着く世界は何処か解らないが、宇宙の果てと異次元、意識宇宙、あの世、それらがパラレルに存在している。
その時、垣間見る世界は、驚異的である。
何度か繰り返すうちに、その一つに我々の物質的宇宙がどのように介在しているのか?
を知ることになる。


この絵は、人々を瞑想的な意識へと連れ去る力があると評価されているが、
名古屋の敏腕プロデユーサーである鳥居靖氏によって、活用していただき感謝している。

 
名古屋 「アビーム」 エントランス


 

1992年ごろ

キャンバスに油彩

100

SPIRITUAL  DEPARTURE

活発に活動して真っ赤に熱を持つ脳内の思考や意識の狭間を潜り抜けて

加速のついた魂が、凄いスピードで体外に向けて射出された。

 

 

 

 

 



体外離脱(
Out of Body Experience)に興味を持つ人は多いだろうし、

実際、様々な手段で離脱を試みる人も居るだろう。

 

 

体外離脱現象において感じられる具体的な現象とは、
まず、奇妙な音が挙げられる。

これは、実際に外部で鳴っているではなく、耳鳴りのような音である。

しかし、それは耳鳴りとも異なり、自分の場合は、脳が鳴っている気がするので「脳鳴り」と呼んでいる。

寝ている状態の時に起こるのだが、いったい何時、どのタイミングで鳴りだすのか?

はまったく解らない。

ただ、睡眠中に起こるのではなく、覚醒と睡眠の間のウトウトしたような状況下で鳴りだすことが多かった。

これが鳴りだすと、ものすごく不快である。

また、その音の先には更に不快な全身振動による金縛りがあり、それを経て離脱現象へと達することを知っているので、少なからず恐怖がよぎる。

離脱に成功し、異次元に射出されてしまえば、恐怖は徐々に消えて、知的な好奇心に溢れた冒険旅行のようにエキサイティングでもあるのだが、肉体から離脱する瞬間は、まるで崖っぷちから深い谷底に向かって飛ぶような怖さを感じることも多い。

 


実際、離脱が成功すると、肉体内に限定していた自分の世界の枠組みが外れ、

意識の拡大を体験できる可能性は高い。

意識の拡大とは?

それは根源的な宇宙意識とのオーバーラップを意味する。

簡単に言えば、ラジオの受信領域が変化して、今までは受信することが出来なかった周波数を受信できるようになるということである。

 



LSDなどの幻覚物質を用いても、そのような意識の状態(変性意識)へと導くことが出来るかもしれない。

映画「アルタードステーツ」や多分そのモデルとなったジョン・C・リリーの著書「意識の中心The Center of the Cyclone」などは私の体験と重なる部分が多くみられる。

 



しかし、あまりに不自然な方法で離脱を試みるのが良いのかどうかは未知である。

離脱によって垣間見た真実を、実際の人生に前向きに活かせるとすれば、その体験は

良いということになるだろう。

しかし、離脱体験に伴うトリップ感や魅惑的な体験には、依存性も少なからずあると思う。
離脱体験を魂のリフレッシュとして活用し、それによって風通しの良くなった高次元意識領域とのコミュニケーションを深め、現実の中に幸せを実現する糧とできるならば、それは神々の祝福を得るだろう。

 

しかし、反面、その体験自体に耽溺すると、それはアヘン患者の生活と酷似してくる危険性さえあると思う。