8月6日マリアナ諸島や沖縄、硫黄島から飛び立った
アメリカ軍のB-29はこの日も、佐賀市や兵庫県西宮市、
前橋市などに爆弾を投下していた。
午前1時37分、3機の気象偵察機が広島、小倉、長崎を
目指し、テニアン島を離陸した。
午前2時45分、重さ5tのウラン235b爆弾 「 リトル・ボーイ 」 を
積んだティベッツ少佐の 「 エノラ・ゲイ 」 もテニアン島を
離陸した。
午前6時40分、エノラ・ゲイは日本に接近し、予定高度3万
フィートへ上昇を始めた。
◇◇◇◇◇
広島上空は、雲一つない青空だった。
エノラ・ゲイを先頭とする3機のB-29が広島市内上空に入った
午前7時09分、空襲警報のサイレンが市内に鳴り響いた。
多くの市民が慌ただしく防空壕に駆け込んだ。
B-29の部隊が旋回しながら、一部の戦闘機が離脱していった
午前7時31分、空襲警報は解除された。
一方、広島市の東、西条町では、監視兵がエノラ・ゲイと後続機
の不自然な旋回を見つけ、広島の通信司令部に電話をした。
午前8時13分、再び空襲警報が発令された。
8時15分、エノラ・ゲイは、広島市中心部の相生橋にさしかかった。
爆弾倉の扉が開いた。
人類史上初の原子爆弾( 原爆 )は、地上600mの上空で炸裂し、
中心温度100万度の火の玉をつくった。
爆心地周辺の地表の温度は3000~4000度に達したという。
爆心地から1.2kmの範囲内では、その日のうちに約5割が死亡した。
1945年12月末までに約14万人が死亡したと推計されている。
広島の象徴となった原爆ドームは1915 ( 大正4 ) 年に広島県の
物産品の販売促進を図る拠点とすることを目的として建てられ、
設立当初は 「 広島県物産陳列館 」 の名称であったが、その後
「 広島県立商品陳列所 」、「 広島県産業奨励館 」 と改称された。
美しいヨーロッパ風の建物で、県下の物産品の展示・販売を行い、
博物館 ・美術館としての役割も担っていた。
戦争が激化した1944 ( 昭和19 ) 年3月には産業奨励館としての
業務が廃止され、内務省中国・四国土木出張所や広島県地方材木、
日本材木広島支社などの統制会社の事務所として使用されていた。
美しかった被爆前の姿
原子爆弾は広島県産業奨励館から、南東約160メートルの距離、
高度約600メートルの位置で炸裂した。
建物内にいた人は全て即死し、建物内は熱線による火災で全焼。
爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという
凄まじいものだったが、建物の屋根やドーム部分は鉄骨部分を除き、
多くは木材で作られていたため、真上からの爆風に対して耐力の
弱い屋根を中心につぶされ、厚く作られていた側面の壁は完全には
押しつぶされず、倒壊を免れた。
広島は母の故郷。
たまたま原爆投下の日、母は広島にいなかった。
母の高校の同窓生の多くが亡くなった。