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肥沼 和之
「 施設の新聞で字を覚えた少女 」 が絞り出す歌
セーラー服の歌人・鳥居
「 私は短歌が好きです。 一生好きです 」
セーラー服姿の歌人・鳥居は涙を浮かべてそう口にした。
2017年6月29日、短歌界で最も歴史ある
「 第 61回現代歌人協会賞 」 授賞式の壇上である。
会場内にいるのは、スーツやドレス、和装に身を包んだ、
いわゆる ” 短歌界の立派な人たち ” ばかり。
その中で、一見すると場違いにも思えるような鳥居だが、
違和感を覚える者は、ほとんどいない。
鳥居の短歌界での功績や、歌人としての実力、そして
成人してもセーラー服を着続けている理由を、
多くの人が知っているからだ。
鳥居の半生は、よく ” 壮絶 ” という言葉で表される。
しかし、それは決して真実ではない。
他に適切な言葉がないために 「 壮絶 」 と用いられるだけで、
実際はもっともっと、辛くて悲しい。
鳥居は舞台女優の母と、脚本家を目指す父の間に生まれた。
しかし、鳥居が2歳の頃に両親は離婚。
彼女は母に引き取られることになった。
一度は三重県にある母の実家に帰った母子だったが、
鳥居が小学2年生の頃、二人は夜逃げをする。
母親は、実父から性的虐待を受けた過去があったと言い、
一緒に暮らすことに耐えられなかったのだ。
そして二人は東京で暮らし始めた。
しかし、鳥居が小学5年生の時、学校から帰ると母が
昏睡状態で倒れていた。
以前から鬱病を患っていた母親が、睡眠薬を大量に服用し、
自殺をはかったのだった。
「 母の耳元で叫んだり、揺り動かしたりしました。
暑く苦しくなれば起きるかなと思って、布団をかけたりもしました。
救急車を呼ぼうともしましたが、この部屋はやっと見つけた
住まいだったんです。 騒ぎを起こして住めなくなったら困るから、
目立つことをするなって母に言われていたので、それも出来ませんでした 」
数日後、小学校の保健室の先生にすべてを話し、
一緒に家に来てもらった時、母はすでに息絶えていた。
当時の心境を、鳥居はのちに、このような歌にしている。
花柄の 籐籠いっぱい 詰められた カラフルな薬 飲みほした母
あおぞらが、妙に乾いて、紫陽花が、路に、あざやかなんで死んだの
その後、鳥居は一時的に児童相談所に保護された後、
三重県の養護施設に預けられた。
そこで待っていたのは虐待だった。
殴る、蹴るなどの暴力は当たり前。
刃物で切り付けられたこともあった。
服もほぼ支給されず、真冬でも半袖、半ズボンで過ごした。
高熱が出た時は、「人にうつるから 」 と、倉庫に閉じ込められて、
数日間放置された。
あまりにも辛く 「 私、死ぬと思う 」 と言った鳥居に対し職員は
「遺書書けば?」と言い放った。
理由なく 殴られている 理由なく トイレの床は 硬く冷たい
爪のない ゆびを庇って 耐える夜 「 私に眠りを、絵本の夢を 」
そんな鳥居だが、唯一の楽しみがあった。
それは、施設にある新聞を読むことだった。
小学校にもまともに通えなかった鳥居には、分からない言葉や
字がたくさんある。
その度に辞書を引き、少しずつ覚えていった。
「 私には漢字が絵のように見えるんですね。そこにどんな意味が
あるのか調べるのは楽しかったです。 難しい字や言葉は、
新聞で覚えたようなものです 」
施設での虐待はやまなかった。
耐えかねた鳥居は、職員に懇願して精神病院に入院させてもらい、
病院付属の中学校に入学した。
そしてほとんど不登校のまま、形式だけの卒業をした。
その後も、鳥居に安穏の日々は訪れなかった。
三重県の実家に戻り、祖母と暮らし始めるも ( すでに祖父は亡くなっていた )
鳥居のことを憎む親類から脅迫を受け、DVシェルターに避難した。
その施設の近くの図書館に置いてあった本が、鳥居の運命を
大きく変えた。
歌人 穂村 弘さんの歌集 「 ラインマーカーズ 」( 小学館 )だ。
鳥居は初めて短歌と出会い、その面白さに衝撃を受ける。
中でもこの一首を読んだ瞬間、たまらなく幸福な気持ちになった。
体温計 くわえて窓に 額つけ 「 ゆひら 」 とさわぐ 雪のことかよ
風邪を引いている子供が窓ごしに外を見て 「 雪だ!」
と興奮したように叫ぶ。
けれど、体温計をくわえているため 「 ゆひら 」 と聞こえる。
父親は 「 なんだ、雪のことか 」 とつっこみを入れる。
そんなほのぼのとした光景が浮かんでくる歌である。
「 歌集全体がそうでしたけど、特にあの歌は おおっ!って
思ったんですよね。 洞窟でお宝を発見したような気持ちでした。
短歌ってなんて面白いんだろう、って興奮して、シェルターの
職員さんに短歌って知っていますか?この歌すごくありませんか?
って聞いて回りました 」
やがて里親に引き取られて、シェルターを出た鳥居だったが
身体が弱かったために追い出される羽目に。
祖母も亡くなっており帰る家もなくなった鳥居は、ホームレス生活を
余儀なくされる。
昼はデパートのソファーなどで睡眠をとり、夜は不審者に
絡まれないよう、散歩のふりをして歩き続けた。
菓子パン1つ、ポテトチップ一袋が数日間の食料になり、
あとはひたすら水を飲んで空腹を紛らわせた。
これからも 生きる予定の ある人が 三か月後の 定期券買う
そんな日々を2か月ほど送ったあと、保証人不要、外人専用の
格安物件に何とか入居できた。
ようやく生活が落ち着いた鳥居は、感銘を受けた歌人 吉川 宏志さんに、
自分の生い立ちを手紙にしたためて送った
当時のことを、吉川さんはのちにこう振り返っている。
「 鳥居さんからもらった手紙には死にたいなどと書いてありました。
ビックリしたし、心配もして、何でもいいから自分を表現したほうがいい、
と返事を書いたんです。 すると何年後かに、短歌を始めたという
メールが来て、その時にもらった歌に衝撃を受けました。
こんな歌を作れる人がいるんだ、何とかして短歌の世界に
広めたい、と思いました 」
( 第61回現代歌人協会賞授賞式の祝辞コメント )
その時の歌は、鳥居が入院していた精神病院での一場面を
詠んだものである。
病室は 豆腐のような 静けさで 割れない窓が 一つだけある
それから鳥居は、ほぼ独学で短歌をつくっていった。
1週間に数百首つくったこともあるという。
この頃から、彼女は 「 鳥居 」 というペンネームを
使うようになった。
鳥居とは、神の世界と人間の世界をつなぐ結界である。
現実と非現実、二つの世界の境界を越え、
自由に行き来できるような力を短歌に宿したい。
同時に年齢や性別を超える存在になりたい、という思いが
込められている。
鳥居は歌人として、着実に力をつけていった。
2012年 「全国短歌大会 」に応募したところ、三千人以上の
中から鳥居の一首が、穂村 弘選の佳作に選ばれた。
2013年には 「 第3回路上文学賞 」 大賞
2014年には 「 第6回中条ふみ子賞 」 候補となった。
一方で、短歌を広めるための活動も始めた。
2012年に大阪の梅田駅で 「 生きづらいなら短歌を詠もう 」
と書いた段ボールを掲げ、道行く人に短歌の魅力を訴えかけた。
食費を削り、短歌の面白さを書いたビラを印刷して、街行く人に
配りもした。
紀伊國屋書店グランフロント大阪店で短歌フェアを開催しているのを
見つけると 「手伝わせてほしい 」 と名乗り出て、ポップを作らせてもらった。
書店側に協力してもらい、短歌の魅力を伝える講演会もさせてもらったという。
そういった行動の原動力には、鳥居の短歌への愛情と、歌人の置かれる
不遇な現状があった。
「 短歌だけで生活していける歌人の方が、ほぼいないことを知ったんです。
それどころか、歌集って自費出版がほとんどなんです。
私が悔しいのは、いい作品を作る人が多いのに、なんで自腹を切らないと
いけないんだろうと。 人気がないアイドルを応援するファンのように、
短歌の良さを広めることで、歌集が売れて歌人が、もっと評価されるように
なってほしい、という思いでした 」
同時に鳥居は、セクシャルマイノリティの人向けに 「 虹色短歌会 」
生きづらさを抱えて人のために 「 生きづら短歌会 」 を
開催するようにもなった。
一部の愛好家だけでなく、あらゆる人に短歌の魅力を
届けるべく、精力的に普及活動を行っていったのだ。
もちろん、創作活動も続けていった。
鳥居は雑誌や新聞、インターネットなどに短歌を発表し、
その歌に共感した人たちのSNSによる拡散や、いとうせいこう氏など
著名人の絶賛によって、徐々にその名が広まっていった。
そして2016年、ついに歌集
「 キリンの子 鳥居歌集 」 ( KADOKAWA アスキーメディアワークス )
が発売された。
収録する短歌を作る日々を、鳥居は 「 無我夢中だった 」 と振り返る。
「 切羽詰まっていたというか。アパートの壁に駄作は公害っていう
殴り書きの紙を貼っていました。 良い歌つくれないなら死ね、
みたいなことも自分に対してよく思っていました 」
歌作が大詰めだった大晦日の夜、鳥居はパーティーとも
カウントダウンとも無縁で一人公園にいた。
そして拾った枝で地面いっぱいに歌を書き、
心の中で叫び散らしていたという。
そのように、魂を削るようにして生まれた 「 キリンの子 」 は
歌集では、滅多にない2万部を突破した。
( 通常は800~1000部とされる )
生い立ちを人に話すと
「 耳を塞ぎたくなった 」
「 そんなことが現実にあるなんて考えたくない 」
と言われることがある、という鳥居。
しかし 「 キリンの子 」 の読者からは、不思議と 「 共感しました 」
という声が多いのだという。
音もなく 涙を流す 我がいて 授業は進む 次は25ページ
「 学校のいつもの教室で、いつも通りに授業が進んでいく。
けれど、なぜか私は辛い ― ― っていう私の歌があるんです。
それを読んだ中学生の方が、自分にもそういうときがあるから
よくわかります、とお手紙をくださって。 作品に共感して孤独なのは
自分だけじゃない、こんな自分でもこの世界に存在していていいのかも、
と思えるのは、すごく大事なことです。
短歌にはその力があると思っています 」
実際、鳥居のもとには、
「 死にたいと思いながら、生きてもいてもいいんだ、と気づいた 」
「 苦しみながらでも、あきらめないで生きようと思った 」
といった手紙が多数寄せられた。
生きづらさを抱えている人だけではない。
大学で講演すると、エリートと呼ばれる学生たちも、それぞれに
悩みを抱えながら生きていることを打ち明けてくれたという。
そして2017年、その功績をたたえるかのように、鳥居は
「 現代歌人協会賞 」 を受賞した。
実は注目が集まれば集まるほど、鳥居のもとには批判や
中傷も寄せられるようになっていた。
アイドルを気取るな、不幸を自慢するな、あんな奴を歌人と
呼びたくない、など。
しかし、そんな声を覆し、鳥居は認められたのだった。
「 私みたいに奇抜な格好をしている歌人を、世間や歌壇は
受け入れないし、歌集にも誰も興味を持たないよ、って
色々な人から言われ続けてきたんです。
でも、受け入れてくださったから賞も頂けたし、世間の方も
歌集を手に取ってくださったんです。この1年、絶対に無理だと
言われてきたことを覆すことができました 」
短歌との出会いによって、生きづらさから救われた鳥居。
歌人であり、短歌を愛する彼女は、自らが巫女となって、
生きづらいすべての人と短歌をつないでいく。
最後に、鳥居がセーラー服を着ている理由について。
彼女は、小・中学校を不登校だったにもかかわらず、
中学校を卒業したことになっている。
これを 「 形式卒業 」 という。
実際には小学校中退なので、学歴と実際の学力には大きな
かい離がある。
もし高校に入学したとしても、授業にはついていけるはずがない。
義務教育から学び直す場として、夜間中学があるが、
実は形式卒業者は入学できない。
学びたい人がいるのに、学ぶ機会が無いのだ。
この問題は、60年もの間、解決されずにいた。
義務教育をきちんと学びなおしたい、けれど学びたくても
学べない境遇の人がいることを知ってほしい。
そんな願いを込めて、鳥居は2012年からセーラー服を着て、
活動するようになった。
「 文筆業以外に、すべての人に教育が保障される制度や
法律を作るため、教育問題を訴えるようになりました。
セーラー服は、その活動の一環です 」
鳥居は声を上げ続けた。
取材を受けるときは、必ずセーラー服を着て応じ、この問題を
扱ってもらうようにお願いした。
ブログやSNSでも思いの丈を発信し続けた。
専門家に協力してもらい、形式卒業者の声を国会に届けて
もらったりもした。
そうした活動が実を結び、2015年7月、文科省は形式卒業者の
夜間中学校での受け入れを求める通知を、全国の教育委員会に
出したのだった。
慰めに 「 勉強など」 と 人は言う その勉強が したかったのです
セーラー服の歌人・鳥居。
その歌、言葉、活動は、現実と非現実、短歌界と社会など、
あらゆる境界を越えていく。
そして人々の心に訴えかけ、社会、そして世界も変えていくのだろう。
目を伏せて 空へのびゆく キリンの子 月の光は かあさんのいろ