昼間、会社で集団的自衛権の解釈変更の話題が出て思い出しました

7月9日は、1944(昭和19)年に太平洋戦争時下で
絶対国防圏であるサイパン島が陥落した日なんですよね。
当時、日本にとって太平洋沖のマリアナ諸島はアメリカ軍の新型爆撃機B-29が
展開すれば、東京など日本本土のほぼ全域を攻撃圏内に収めることができる位置に
ある為、戦略的に大変重要な地点とされていました。
もし、マリアナ諸島からの本土空襲が始まれば、日本は関東の工業地帯を破壊され、
更には民間人に大量の死者を出すことや、国民の士気が低下して戦争継続が困難と
なることが予想されました。
その為、1943(昭和18)年9月30日の御前会議で大本営は
絶対国防圏を定め、サイパン島をその中核拠点としました。
その後、海軍の担当エリアである太平洋への派兵を嫌がっていた陸軍も
中国大陸に展開していた関東軍から第29師団(師団長:高品彪中将)を
送りこみました。
しかし、この時期になるとマリアナ諸島の防衛は1個師団レベルで
事が足りるとは到底考えられなくなっており、日本本土からも
第43師団(師団長:斎藤義次中将)等がサイパンに派遣されました。
戦車連隊や第43師団の第一陣は無事到着しました。
しかし、敵潜水艦の雷撃によって第43師団の第二陣を輸送中の船団は
大損害を受け、サイパンに到着できたのは歩兵第18連隊で半分にも満たず、
歩兵第118連隊は丸腰の将兵が1/3だけなど、戦場に辿り着く前に
約1万名が大量の物資と共に海の藻屑と消えました。
そして、現地で増援部隊は再編成されました。
日本陸軍は1944(昭和19)年2月25日に第31軍
(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成、
マリアナ諸島やカロリン諸島西部の指揮を担当させることにしました。
第31軍の司令部はサイパン島に置かれました。
テニアン以北を担当する北部マリアナ地区集団(指揮官:斎藤義次第43師団長)と、
ロタ以南を担当する南部マリアナ地区集団(指揮官:高品彪第29師団長)が、
マリアナ方面の防備を担当する海軍の連合艦隊 司令長官の指揮下に入って、
中部太平洋方面艦隊 司令長官 南雲 忠一中将の指揮を受ける形式になりました。
しかし、実際には陸海軍部隊の指揮はそれぞれの司令部によって行われていました。
こうしてマリアナ諸島には大本営が満足すべき兵力が展開できつつありました。
日本軍の守備計画は、水際作戦による上陸部隊撃破に主眼が置かれていました。
大本営陸軍部(参謀本部)作戦課長の服部卓四郎大佐は
「たとえ海軍航空がゼロになっても敵を叩き出せる」と
豪語していたそうです。
東条英機 参謀総長(内閣総理大臣と陸軍大臣の三職兼任)も
昭和天皇に対して「サイパン、テニアン、グアムは確保できる」と、
絶対の自信を披露するほどだったと云われています。
日本陸海軍上層部の多くが「アメリカ軍はいずれマリアナに来るが、
それはパラオに来寇した後で、時期としては1944(昭和19年)末頃」
と見込んでいました。
この大本営の間違った情勢判断から、主力の第43師団が
サイパンに到着してから配置が決まったのがアメリカ軍上陸の
僅か20日前であり、簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しか
残されていませんでした。
ところで、日本の委任統治領だった関係でサイパン島には
日本の民間人多数が戦前から居住しており、情勢の悪化に伴い
5000人が本土へ疎開したものの、約2万人がアメリカ軍が
上陸した時にも在島していました。
6月11日、アメリカ軍艦載機1100機によるサイパン島に対する
奇襲的な空襲が行われ、6月13日からは上陸船団を伴った艦隊が
サイパン島に接近、18万発もの艦砲射撃が開始されました。
これにより水際にあった日本軍の陣地は半壊、
サイパン基地の航空機全てが失われました。
このサイパン島への侵攻は、パラオ方面への
侵攻を予想していた日本軍を驚かせました。
小畑 軍司令官は急いでサイパンの軍司令部へ帰還しようとしましたが、
既にサイパン島周辺はアメリカ軍の制空権下となっていたため不可能で、
小畑軍司令官はグアム島から指揮を執ることになりました。
軍司令官不在の第31軍司令部は、井桁参謀長が責任者となって
作戦指導を行いましたが、少将である井桁参謀長が中将である
斎藤第43師団長を指揮するという変則的な形式となりました。
日本海軍は、アメリカ軍がサイパン攻略を目的としていることを
なかなか確信できずにいましたが、6月13日に至ってついに、
主力である第一機動艦隊と大和、武蔵の戦艦部隊を合流させて、
マリアナ沖海戦に挑みました。
アメリカ軍上陸日の夜、日本は水際作戦のため主力を海岸に結集し
一斉に反撃を開始しました。
しかし、アメリカ軍の優勢な火力により2個大隊と
横須賀第1陸戦隊は、ほぼ全滅し、島の北部へ退却しました。
16日の夜から17日にかけて、日本軍は戦車第9連隊を含む
約8000名が総攻撃を開始しましたが、1時間に野戦砲800発、
機銃1万発というアメリカ軍の圧倒的火力によりほぼ全滅しました。
6月19日、出撃した日本機動艦隊はマリアナ沖海戦で大敗を喫しました。
2日間で艦載機400機を失い、日本海軍航空部隊は無力化されてしまいました。
これによりマリアナ諸島の日本軍は事実上、救援の望みを絶たれてしまいました。
陸上でも日本軍は組織的な反撃が不可能なほど戦力が減少しました。
海戦での敗北後、尚も日本軍上層部はサイパン島の奪還を検討し、
第5艦隊などを輸送に使い、独立混成第58旅団を増援部隊として、
逆上陸させることを計画しました。
マリアナ沖海戦の生き残り空母や海上護衛総司令部の護衛空母などに
基地航空隊からかき集めた戦闘機を搭載し、グァム基地も活用して
制空権を一時的に奪取することや、水上艦艇を強行突入させることも
検討されました。
このサイパン島奪還作戦は、単に軍事的な意図からだけではなく、
東條英機内閣の責任を追及する政治的な目的からも主張されていたのです。
6月24日、大本営は奪還の見込み無しとしてサイパン島の放棄を決定。
この時点での日本側兵力は、斎藤中将の指揮する第43師団が4000名、
他部隊は2000名程度にまで減少していた。重装備は戦車が僅かに3両で、
野砲は全損という状況。
食料や水、医薬品が欠乏し、負傷者は自決する他ありませんでした。
それでも日本軍は断固として抵抗を続けたため、
6月20日以来、アメリカ軍の進撃は遅々として進まず、
第27歩兵師団長ラルフ・スミス少将が更迭されたそうです。
7月7日には、日本軍は完全に追い詰められてしまいます。
斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、
陸海軍によるバンザイ突撃が行われた。
米軍は日本兵の捕虜からこの攻撃の情報を得ており、
陣地を築いて待ち構えていました。
この戦闘でアメリカ軍に死傷者658名の損害を与えましたが、
日本軍出撃部隊はほぼ全滅した。
翌日の戦場は「死の谷」と呼ばれるほど、
両軍の死体が累累と積み重なっていたと云います。
南雲 忠一 中部太平洋方面艦隊司令長官を始め高級指揮官らは自決し、
一部の日本兵は降伏、事実上サイパン島の日本軍は全滅しました。
7月9日にアメリカ軍のターナー中将はサイパン島の占領を宣言しました。
なんだか長くなってきたので、続きは次回へ・・・・・


7月9日は、1944(昭和19)年に太平洋戦争時下で
絶対国防圏であるサイパン島が陥落した日なんですよね。
当時、日本にとって太平洋沖のマリアナ諸島はアメリカ軍の新型爆撃機B-29が
展開すれば、東京など日本本土のほぼ全域を攻撃圏内に収めることができる位置に
ある為、戦略的に大変重要な地点とされていました。
もし、マリアナ諸島からの本土空襲が始まれば、日本は関東の工業地帯を破壊され、
更には民間人に大量の死者を出すことや、国民の士気が低下して戦争継続が困難と
なることが予想されました。
その為、1943(昭和18)年9月30日の御前会議で大本営は
絶対国防圏を定め、サイパン島をその中核拠点としました。
その後、海軍の担当エリアである太平洋への派兵を嫌がっていた陸軍も
中国大陸に展開していた関東軍から第29師団(師団長:高品彪中将)を
送りこみました。
しかし、この時期になるとマリアナ諸島の防衛は1個師団レベルで
事が足りるとは到底考えられなくなっており、日本本土からも
第43師団(師団長:斎藤義次中将)等がサイパンに派遣されました。
戦車連隊や第43師団の第一陣は無事到着しました。
しかし、敵潜水艦の雷撃によって第43師団の第二陣を輸送中の船団は
大損害を受け、サイパンに到着できたのは歩兵第18連隊で半分にも満たず、
歩兵第118連隊は丸腰の将兵が1/3だけなど、戦場に辿り着く前に
約1万名が大量の物資と共に海の藻屑と消えました。
そして、現地で増援部隊は再編成されました。
日本陸軍は1944(昭和19)年2月25日に第31軍
(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成、
マリアナ諸島やカロリン諸島西部の指揮を担当させることにしました。
第31軍の司令部はサイパン島に置かれました。
テニアン以北を担当する北部マリアナ地区集団(指揮官:斎藤義次第43師団長)と、
ロタ以南を担当する南部マリアナ地区集団(指揮官:高品彪第29師団長)が、
マリアナ方面の防備を担当する海軍の連合艦隊 司令長官の指揮下に入って、
中部太平洋方面艦隊 司令長官 南雲 忠一中将の指揮を受ける形式になりました。
しかし、実際には陸海軍部隊の指揮はそれぞれの司令部によって行われていました。
こうしてマリアナ諸島には大本営が満足すべき兵力が展開できつつありました。
日本軍の守備計画は、水際作戦による上陸部隊撃破に主眼が置かれていました。
大本営陸軍部(参謀本部)作戦課長の服部卓四郎大佐は
「たとえ海軍航空がゼロになっても敵を叩き出せる」と
豪語していたそうです。
東条英機 参謀総長(内閣総理大臣と陸軍大臣の三職兼任)も
昭和天皇に対して「サイパン、テニアン、グアムは確保できる」と、
絶対の自信を披露するほどだったと云われています。
日本陸海軍上層部の多くが「アメリカ軍はいずれマリアナに来るが、
それはパラオに来寇した後で、時期としては1944(昭和19年)末頃」
と見込んでいました。
この大本営の間違った情勢判断から、主力の第43師団が
サイパンに到着してから配置が決まったのがアメリカ軍上陸の
僅か20日前であり、簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しか
残されていませんでした。
ところで、日本の委任統治領だった関係でサイパン島には
日本の民間人多数が戦前から居住しており、情勢の悪化に伴い
5000人が本土へ疎開したものの、約2万人がアメリカ軍が
上陸した時にも在島していました。
6月11日、アメリカ軍艦載機1100機によるサイパン島に対する
奇襲的な空襲が行われ、6月13日からは上陸船団を伴った艦隊が
サイパン島に接近、18万発もの艦砲射撃が開始されました。
これにより水際にあった日本軍の陣地は半壊、
サイパン基地の航空機全てが失われました。
このサイパン島への侵攻は、パラオ方面への
侵攻を予想していた日本軍を驚かせました。
小畑 軍司令官は急いでサイパンの軍司令部へ帰還しようとしましたが、
既にサイパン島周辺はアメリカ軍の制空権下となっていたため不可能で、
小畑軍司令官はグアム島から指揮を執ることになりました。
軍司令官不在の第31軍司令部は、井桁参謀長が責任者となって
作戦指導を行いましたが、少将である井桁参謀長が中将である
斎藤第43師団長を指揮するという変則的な形式となりました。
日本海軍は、アメリカ軍がサイパン攻略を目的としていることを
なかなか確信できずにいましたが、6月13日に至ってついに、
主力である第一機動艦隊と大和、武蔵の戦艦部隊を合流させて、
マリアナ沖海戦に挑みました。
アメリカ軍上陸日の夜、日本は水際作戦のため主力を海岸に結集し
一斉に反撃を開始しました。
しかし、アメリカ軍の優勢な火力により2個大隊と
横須賀第1陸戦隊は、ほぼ全滅し、島の北部へ退却しました。
16日の夜から17日にかけて、日本軍は戦車第9連隊を含む
約8000名が総攻撃を開始しましたが、1時間に野戦砲800発、
機銃1万発というアメリカ軍の圧倒的火力によりほぼ全滅しました。
6月19日、出撃した日本機動艦隊はマリアナ沖海戦で大敗を喫しました。
2日間で艦載機400機を失い、日本海軍航空部隊は無力化されてしまいました。
これによりマリアナ諸島の日本軍は事実上、救援の望みを絶たれてしまいました。
陸上でも日本軍は組織的な反撃が不可能なほど戦力が減少しました。
海戦での敗北後、尚も日本軍上層部はサイパン島の奪還を検討し、
第5艦隊などを輸送に使い、独立混成第58旅団を増援部隊として、
逆上陸させることを計画しました。
マリアナ沖海戦の生き残り空母や海上護衛総司令部の護衛空母などに
基地航空隊からかき集めた戦闘機を搭載し、グァム基地も活用して
制空権を一時的に奪取することや、水上艦艇を強行突入させることも
検討されました。
このサイパン島奪還作戦は、単に軍事的な意図からだけではなく、
東條英機内閣の責任を追及する政治的な目的からも主張されていたのです。
6月24日、大本営は奪還の見込み無しとしてサイパン島の放棄を決定。
この時点での日本側兵力は、斎藤中将の指揮する第43師団が4000名、
他部隊は2000名程度にまで減少していた。重装備は戦車が僅かに3両で、
野砲は全損という状況。
食料や水、医薬品が欠乏し、負傷者は自決する他ありませんでした。
それでも日本軍は断固として抵抗を続けたため、
6月20日以来、アメリカ軍の進撃は遅々として進まず、
第27歩兵師団長ラルフ・スミス少将が更迭されたそうです。
7月7日には、日本軍は完全に追い詰められてしまいます。
斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、
陸海軍によるバンザイ突撃が行われた。
米軍は日本兵の捕虜からこの攻撃の情報を得ており、
陣地を築いて待ち構えていました。
この戦闘でアメリカ軍に死傷者658名の損害を与えましたが、
日本軍出撃部隊はほぼ全滅した。
翌日の戦場は「死の谷」と呼ばれるほど、
両軍の死体が累累と積み重なっていたと云います。
南雲 忠一 中部太平洋方面艦隊司令長官を始め高級指揮官らは自決し、
一部の日本兵は降伏、事実上サイパン島の日本軍は全滅しました。
7月9日にアメリカ軍のターナー中将はサイパン島の占領を宣言しました。
なんだか長くなってきたので、続きは次回へ・・・・・