皆さんお世話なってます。生きていたい著者の岡林卓也です。
今日は、本にも書いてなかった僕も闘病中の話をさせていただこうと思います。僕は2年前の3月5日に現在の居住地である和歌山から遠く離れた高知県で、仕事中に倒れ、突然のガン宣告を受けました。
このあたりのお話は以前にも書いているのでこちらからご覧になってください。
今日からは和歌山に帰ってからのお話を中心にさせていただきたいと思います。
高知県で運び込まれた病院の担当医師からのご紹介で、和歌山のある病院を紹介していただきました。高知県から和歌山への帰郷は、僕が一人で運転して帰っては危険だと言うことで、奥さんが子供達を連れて高知の病院まで迎えに来てくれました。
正直僕はどんな顔で奥さんにあえば良いのか?わかりませんでした。とにかく一つだけ、絶対に僕から泣くのはやめよう。と心に誓っていました。
正直僕の脳裏には、死ぬかもしれんな。と言う想いがあり、どうせ死ぬんだったら、こいつらに何が残せるだろう?とそればかりを考えていたので、ただでさえ不安な奥さんをこれ以上不安がらすのだけはしたくないと思っていました。
それと小さな子供達はガラスのように繊細な心で、すごく敏感な感受性を持っていますから、それだけは傷つけたくはないと思っていました。
それに正直、実感があまりなくて不思議な気持ちでした。原因が病気でも、しばらく会ってない家族と会えたのがすごく嬉しかった事を今でも良く覚えています。
そして和歌山に帰り着いたのは午後11時を回ったぐらいでした。
和歌山の病院には、その日のうちに行くと告げていたので、できるだけ急いで行くと、ご紹介いただいた先生であろう年配の先生と同じ課の若い先生の2人が夜遅くまで待っていてくれました。
そこですぐ、CT 検査をしました。そしてその年配の先生からのご説明は、高知の病院の時と同じく悪性腫瘍だと言うことおつげられました。
その時その先生からは、仕事は何をされてるんですか?家はここから近いですか?出張先の仕事ほっといても大丈夫なのですか?と聞かれ、正直僕は腹が立ちました。
そして僕は先生にいました。僕は今死にかけてるんですよね?仕事だとか?家だとか?その事と病気の何の関係があるんですか?と少し強い口調で、先生に言いましたがご返答は得られませんでした。
あとで冷静になって考えてみると、先生は治療の進め方や手術の事が、頭にあったからだと思いました。そしてその晩は、また家族と別れ病院のベッドで眠ることになりました。次回もこれに引き続き、僕の闘病記をそのとき毎日つけてた日記を元に書いていこうと思います。
僕もように胚細胞腫瘍の前縦隔原発で非セミノーマという病気は、本当に珍しく、僕も闘病中何回もパソコンで調べましたが、
ほぼ記録はなく、唯一見つけたブログは途中で更新が止まり、とても不安な思いをしましたので、このことを本に書こうと思いました。
そしてこのブログも、更新し続けて行こうと思います。
今日も長文を最後まで読んでくださり心から、感謝をいたします。