内田善一郎が横浜から出航できるまでに、トラブルが発生した。善一郎だけがビザ発行されずにストップがかかった。
1950年代アメリカの反共政策により、ビザの下りない理由が二つあり「共産党員」と「戦犯」であった。善一郎自身は一年半の捕虜収容所での生活であったが、戦犯容疑は無しということであるが、戦後の活動が共産党と誤解されていたらしい。
この誤解を解消してくれた恩人が国際農友会の那須皓博士であった。もしこの出会いが無かったらその後の善一郎のアメリカとの関わりが存在しなかった。
----【那須皓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
那須 皓(なす しろし、1888年6月11日 - 1984年3月29日)は、大正・昭和期の農学者(農学博士)。専攻は農業経済学及び農政研究。東京市本郷区(のち東京都文京区)生まれ。
1911年に東京帝国大学農科大学(のち東京大学農学部)を卒業後、1917年に助教授、1922年には教授となる。1921年(大10)ジュネーブでの第3回国際労働会議総会に労働者代表委員顧問として出席,小作農民の団結権を主張したのをはじめ,太平洋会議には第2回以降連続5回にわたって日本代表委員として出席し,当時政治的,経済的に非難の高かった日本の立場について国際理解の徹底に努めた。また,1938年(昭13)には北京大学農学院名誉教授としてその運営に参加した。「日本農業経済学会」を結成して農業経済学の日本における普及を図る一方、農林省の石黒忠篤と親交が深く、頻発する小作争議や農村の貧困問題の解決などの研究を行い、後に農林大臣となり「農政の神様」と称されるようになった石黒の側近・ブレーンとして活躍した。また、軍部の台頭に危惧を抱いて、アジア太平洋地域との平和的な交流に尽力した。
1937年には石黒や加藤完治・橋本伝左衛門(京都帝大教授)らとともに「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する意見書」を政府諸官庁に提出、国内農業問題解決のための満蒙開拓移民の推進役となった。
戦後、一時公職追放となるが、後に復帰すると吉田茂元首相の要請を受けて、以後は財団法人農村更生協会・社団法人国際農友会の各会長,財団法人太平洋問題調査会副理事長,財団法人国際学友会副会長,農林大臣顧問,農業労務者派米協議会副会長などを経て1957~61年(昭32~36)には1957年駐インド兼ネパール大使、特命全権大使としてインドに派遣された。、農業を中心とした交流強化に努める。インドでライ病の深刻さを目の当たりにして帰国後に「アジア救ライ協会」を組織して初代理事長となった
1968年(昭43)には南米開発株式会社,さらに1970年(昭45)にはイグアス農牧株式会社を設立し,自らその社長となった。その活動は農政問題を中心として,内外両面にわたりきわめて多彩,とくに対外面での活動は単なる農政学者としてのそれを超えて顕著なものがあった。 。1963年に国連食糧農業機関の総会議長に就任するなど、日本と海外との交流に尽くした事が評価されて1965年に勲二等に属する勲章である旭日重光章を授与された(勲二等瑞宝章はそれより以前に受章済)。1967年に日本人3人目のマグサイサイ賞受賞。
著書に『農業問題と社会思想』・『公正なる小作料』などがある。】