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著: 向野幾世
発行: 扶桑社

 15年間を精一杯生きた、脳性マヒ児の「いのちの詩」。
 この本を読んで、感動しない人はいないと思います。

向野 幾世(こうの いくよ)
 1936~ 香川県生まれ。奈良女子大学文学部卒。国立教護事業職員養成所終了。肢体不自由児施設指導員や奈良県立明日香養護学校教諭、奈良県立障害児教育センター所長、西の京養護学校校長、奈良県立教育研究所障害児教育部長などを歴任。一貫して、障害児の教育の機会拡大や、障害者と健常者の共生を目指してボランティアの育成や啓発・教育活動を展開。98年、文部大臣より教育功労賞受賞。主著に『いいんですか車椅子の花嫁でも』(サンケイ出版)。

【内容抜粋
「やっちゃんも、フォークコンサートの話にいっぺん挑戦してみる?」
 年もおしつまったころでした。いつものように、やっちゃんのからだにふれて話しかけてみました。その手足がギュウッと硬くなり、ひとみが、光っていました。
「わかった、わかった、また実験やね。詩づくりといきますか。作詩家になりますか」
 やっちゃんが、キャーと声をあげました。まわりの子たちがコンサートめざして、詩づくりをしているのを、この子は、いつもながらの見物席で耐えていたのでしょうか。
 挑戦してみますかと言ったものの、意欲まんまんのやっちゃんの心をどうつづったものでしょう。
 先の言語ノートの覚え書きを整理していくことにしました。
 時間をかければ、かなり確かに、この子のことばの世界に近づけることはわかっていました。
「ごめんなさいね おかあさん」という題に行きつくまでの段階は、こんなふうにして、ことばを選んでいったのです。
「ごめんね おかあさん」これはいつものことばでしたから、これを題にしようかというと“ノーノー、いやだ”と舌をだします。それじゃ、男らしく「ごめんよ かあさん」これはどう? と言うと、またノーのサイン。こんどは上下を逆にして、「かあさんごめんよ」とやってみます。どうもピッタリこないんだなあっていうやっちゃんの顔。
 私の頭に浮かぶかぎりのことばの組み合わせの中から、やっと、やっちゃんが、ウインクでイエスのサインを出したのは、「ごめんなさいね おかあさん」でした。
 舌を出すことと、目をつぶること、そして全身の緊張という障害を使って、話をすることで、ことばノートの整理が始まったのです。
 年も明け、四月二十六日という、フォークコンサート開催日はどんどん近づいていました。
 やっちゃんの詩の初めの部分ができたとき、お母さんの京子さんにも見てもらいました。

  ごめんなさいね おかあさん
  ごめんなさいね おかあさん
  ぼくが生まれて ごめんなさい
  ぼくを背負う かあさんの
  細いうなじに ぼくはいう
  ぼくさえ 生まれなかったら
  かあさんの しらがもなかったろうね
  大きくなった このぼくを
  背負って歩く 悲しさも
  「かたわな子だね」とふりかえる
  つめたい視線に 泣くことも
  ぼくさえ 生まれなかったら

 読み終えてもお母さんは無言でした。ただ目がしらをおさえて、立ちつくしていました。
「やっちゃんが、これを……」とかすかに言われたように思います。そのせりあげる思いが私にも伝わってきました。
「わたしの息子よ」と呼びかけた京子さんの詩が私の手元に届いたのは、すぐ次の日のことです。こんどは私が立ちつくしました。

  私の息子よ ゆるしてね
  わたしのむすこよ ゆるしてね
  このかあさんを ゆるしておくれ
  お前が 脳性マヒと知ったとき
  ああごめんなさいと 泣きました
  いっぱいいっぱい 泣きました
  いつまでたっても 歩けない
  お前を背負って歩くとき
  肩にくいこむ重さより
  「歩きたかろうね」と 母心
  “重くはない”と聞いている
  あなたの心が せつなくて
  わたしの息子よ ありがとう
  ありがとう 息子よ
  あなたのすがたを見守って
  お母さんは 生きていく
  悲しいまでの がんばりと
  人をいたわるほほえみの
  その笑顔で 生きている
  脳性マヒの わが息子
  そこに あなたがいるかぎり

 このお母さんの心を受けとめるようにしてやっちゃんは、後半の詩づくりにまた挑みました。

  ありがとう おかあさん
  ありがとう おかあさん
  おかあさんが いるかぎり
  ぼくは生きていくのです

  脳性マヒを 生きていく
  やさしさこそが 大切で
  悲しさこそが 美しい
  そんな 人の生き方を
  教えてくれた おかあさん
  おかあさん
  あなたがそこに いるかぎり

 この詩をのこしてやっちゃんが、二カ月もたたずして亡くなろうとは。いまにして思えば、このとき母と子にながれた温かい思いが迫ってきます。短い生涯のいのちのたけを託したことば選びに、やっちゃんが冬のさなかに全身に汗をためて、反応したことも、思いの半分もことばにかえられなくて、いらだって泣いてしまったことも、胸に迫って思い出されます。
 やっちゃんにとって、「ありがとう おかあさん」と「ごめんなさいね おかあさん」は背中あわせのことばでもありました。やっちゃんが言う「ごめんなさいね」は、母へのいたわりと思いやりがあふれていました。
 だれにあやまる必要のない“いのちの誕生”のはずですが、苛酷すぎる十五年間の暮らしの中で、少しずつ重く、重くなり、ついに、「ぼくが生まれてごめんなさい」と言わずにはいられなかったのでしょうか。それだからこそ、いっそう母子は、ともにいたわりあって生の意義を確かめたのです。
 ありがとう おかあさん おかあさんがそこにいる限り 脳性マヒを生きていきます
 ありがとう 私の息子よ あなたの姿見守って おかあさんも生きていきます
 やさしさと、人をいたわるほほえみに、この母と子は、人生の意義を感じていたのです。
“いいんだ。脳性マヒを生きるんだ”と、やっちゃんが思うとき、お母さんもまた、この道より他に私の生きる道はないと、ともに生きていく決意ができたのでしょう。


「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。」(イザヤ書43:7)