開祖は平重盛の妹、妙雲禅尼といわれている。
塩原の温泉街の一角にあるこの寺を訪れるのは、これで3度目か。
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本堂。
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本堂の裏手にある滝。
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熊に注意の立て札が。
以前来た時はサルに注意だったのだが。
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以前はこの先まで行けたのだが、今は立ち入り禁止になっていた。
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本堂の天井の菊の絵に、墨で大きく×印が描かれた跡が残っている。

撮影禁止なので写真はないが、以前来た時に書いたブログを再掲する。

 

塩原の温泉街の一郭に妙雲寺がある。
本堂の天井は菊の紋章で装飾されているが、そのほとんどに墨で×印が書かれている。誰が書いたか、については見解が分かれているようだが、戊辰戦争の時に書かれた、という点では一致している。

宇都宮を撤退した旧幕府軍の中に凌霜隊がいた。
美濃・郡上藩士の部隊だ。
郡上藩としては、やむなく新政府軍についたが、混沌とした情勢の中で、どちらが勝っても藩が存続できるよう、密かに幕府側にも藩士を送り込んでいた。
その部隊に付けられた名称が凌霜隊だ。

会津藩の指揮下に入った凌霜隊は、塩原の守護を命じられた。
戦いの無いまま3か月が過ぎたが、新政府軍の会津進攻に伴い、村を焼き払って撤退するよう命令が来た。
一説によれば、寺の天井にある菊の紋章を焼くのは天皇家に対して不敬になるので、菊でないことにするため、凌霜隊が×印を付けたとされる。

3か月の間世話になった村民から、寺だけは焼くのはやめてほしいと懇願され、凌霜隊としても村を焼くのは本意でないことから、苦肉の策として、寺の近くに薪や畳を積み上げて火をつけ、寺が燃えているように偽装して会津に去って行った。

会津落城後、郡上に護送された凌霜隊員は、罪人として投獄される。
藩命によって幕府側に派遣されたのだが、この事実は藩の上層部だけの極秘となっていた。
新政府の目を恐れた上層部は、徹底して事実を隠そうとした。
事実を知らない藩士や町民からは、凌霜隊は藩命に背き、藩を危機に陥れた朝敵として白眼視される。

戦火を免れた妙雲寺住職が、本山妙心寺にいきさつを報告したことがきっかけとなり、凌霜隊のその後を知った本山は、郡上の慈恩寺住職の凌霜隊赦免嘆願を後押しする。
慈恩寺住職の尽力で、赦免は実現できたが、その後も藩命で脱藩した事実を公表されることはなく、朝敵の汚名をそそがれることのないまま、それぞれ他の地に転居せざるを得なかったという。

妙雲寺本堂の格天井には、今もはっきり×印が残っている。