死刑制度について | たけぞーから見る世界(元:武奘の弓道日記)

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どうぞ、たまには他人の視点から世界を見ていって下さい。


このニュースに関してtwitterを眺めていると「殺すやつが悪い」とか「内政干渉だ」というコメントが見受けられます。
間違いではないし、そういう考えがあることも確かです。

死刑廃止に対しての根強い反対意見は、
○ 犯罪率の増加を懸念するもの
○ 同害復讐法的な考え(「目には目を、歯には歯を」)と、遺族の感情を優先する考え
の2つであると、僕は感じます。

まず前者の、死刑と犯罪率の関係を指摘する声は根強いもので、これは世界共通の反対意見でもあります。
しかし、1988年に調査され、2002年に改訂された、国際連盟に提出された報告書では、

「統計の数字が以前と同じ方向を指し続けているという事実は、死刑に依存することを減らしたとしても、各国は犯罪曲線が急激かつ深刻に変化することをおそれる必要はないという説得力のある証拠である」

と述べられています。
統計的な数字が、それを読み取る主観的な考えに左右されるというのは、統計を見るときの基本だとは思います。
それはそれとして、現在の国連の考えは、調査に基づいたこのようなものであるということを知らなくてはいけませんし、これが国際的な考えであると踏まえなくてはならないでしょう。
(参考 http://homepage2.nifty.com/shihai/shiryou/facts&figures.html)

後者に関しては、責任の取り方や負わせ方という点で、議論があると思います。
僕はこの点に関して、強い根拠を持ったデータを知らないので、ここではある古典を紹介したいと思います。

それは『歎異抄』という書物で、作者は親鸞に師事した唯円とされている、仏教書です。
ここには、善悪に関して次のように書かれています。

なにごともこゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人をころすこともあるべし

現代語訳:
人間が心に任せて善でも悪でもできるならば、往生のために千人殺せと私が言ったら、おまえは直ちに千人殺すことができるはずである。しかしおまえが一人すら殺すことができないのは、おまえの中に、殺すべき因縁が備わっていないからである。自分の心がよくて殺さないのではない。また、殺すまいと思っても、百人も千人も殺すことさえあるであろう

(梅原猛『梅原猛の「歎異抄」入門』PHP研究所、2004.6、p.162)

「親鸞」や「往生」という言葉を聞くだけで、非常に抹香臭い話かと思われるかも知れないが、少し耳を傾けてほしい。
ここでは、もし人間が自分の思うがままに生きることができる生き物であるならば、極楽浄土に行けるという至高の目的があれば千人殺すことだってできるだろうが、実際はそうではない、と弟子に言い聞かせています。
人間は自分の心が善いから殺さないのではなく、人を殺すにたる理由がないから一人だって殺すことができないだけであり、また殺すまいと思っていても、様々な条件が揃っていれば百人、あるいは千人だって殺すこともあるだろう、と言います。
端的に言ってしまえば「人間は私たちが思っているほど自由ではない」ということだと思います。

さて、個人はどこまでの責任を考えればいいのでしょうか。
僕はこの点は、簡単に判断することのできない、非常に難しいものだと思います。


ではそもそも、なぜ日本では死刑が認められているのでしょうか。

それは、1948年の最高裁判所の判決に基づいているとされています(最(大)判昭和23年3月12日 刑集2巻3号191頁)。
この裁判では、死刑の残虐性と正当性について争われました。
判決文では、「生命は尊貴」と評価しながらも、“公共の福祉”原則の優先を理由に、死刑制度の存続を認めました。
しかし、そこには次のような言葉があります。

「憲法は、現代多数の文化国家におけると同様に、刑罰として死刑の存置を想定し、これを是認したものと解すべきである」

“現代多数の文化国家におけると同様に”というのが重要なわけです。
しかし、これは65年前の“現代”であるということを踏まえなくてはいけません。
2012年には全198ヶ国中、140ヶ国が死刑を法律上または事実上廃止しており、これは全体の71%を占めます。
果たしてこの現状を踏まえて、現在は死刑制度を“是認したものと解すべき”でしょうか。

この記事によると、EUに国民的議論を呼びかけられたわけです。
僕としては、まず「なぜ死刑が認められているのか」ということを知ってほしいし、その上で「なぜ必要なのか」ということを、論理そこそこ感情そこそこで考えて頂きたいと思います。