教育再生実行会議が投げかけたのはミスマッチへの対処 | 前和光市長 松本たけひろ オフィシャルウェブサイト

教育再生実行会議が投げかけたのはミスマッチへの対処

「大学で『職業人』育成を 教育再生実行会議が提言 」という報道を踏まえて、アカデミズムの先生方のみならず、各所から、「ふざけるな」「大学をバカにしているのか」という趣旨の怒号に近い批判が飛び交っています。大学は職業専門校ではないので、それはそれでいいのですが、大学から出てくる卒業生の能力と産業界が求める人材の能力に齟齬があることは確かです。そして、大学の先生方が想定しているようなリベラルアーツを修め、その土台の上に専門知識を薄く乗せたような学士というのはそのレベルが相当のものでない限り、必要ない、というのが産業界の考え方です。
つまり、いわゆる従来型の大学の卒業生の数が多すぎる、というのが人を採用する立場からの投げかけなのだと思います。
ものすごく長くなりますが感じたことを述べてみます。


・ミスマッチが存在している
まず、求められる従来型の学士の数は限られていること、それ以外の従来型の学士は必要ないと考えられていることを総合すると、今の(あるいは少し前の恐るべき)就職難というのはある意味ではミスマッチの結果なのかな、と思います。
で、「産業界から求められず、食えない学生」しか社会に送れない大学の生きる道が問題になっているわけです。いくら「大学とはこんなもんでっせ」と言われても、そこの卒業生はそんなにたくさんはいりませんし、質にも問題があります、と言われているわけです。あくまで、産業界にでは、という意味なので、そのほかに生きる方途があれば別なんですけれどね。


・卒業生に「生きる力」「食える力」をつけさせられない学校にニーズはあるのか
一方で、富山和彦氏の論によると、経理ができる大卒(専門卒)、職務として大型の運転ができる高卒、看護ができる専門卒など、引く手あまたの状況が今、あるといいます。となると、大学の仕事かどうかは別にして、ある領域の手に職のある働き手になることが有力な「生きる道」である、という現実があります。
さて、「生きる道」に人を送り込めない一部の「大学」ですが、国庫補助や私学助成で生きている面があります。しかし、それは税の使い道としてどうなのか、という批判はありますね。もし、私学助成がなければ潰れるか、あるいは大学自身の生きる道を探らなければならない。しかし、私学助成があるから生きている。
そういう大学こそがこの会議により、今後の方向性を問われているのだと思います。
私学助成の原資は税ですから、先生方がいくらお怒りになっても、結果的に有権者に意義を認識してもらえないと、いずれは存在意義を問われることになります。
(もちろん、芸術や文化をしっかりと守ることは為政者の責務ですから、政権はそこそこがんばることでしょう。私も文化施策は重視しています。それは政治に携わる者の品格を問われることにもつながりますので、普通の感性がある政治家なら異論はないところです。しかし、いくら
出せるのか、という実務的な面で言うとおのずと限度があります)。


・大学は専門学校と私学助成を奪い合うことになる可能性もある
さて、そんななか、従来型の「学士」を量産するだけでは生きていけない「食えない大学」「食わさせられない大学」はどう生き残れはいいのか、それを示しているのがこの提言です。
おそらく、提言を踏まえて私学助成のあり方が変わるのではないかと私は思います。個人的な予想では、大学・短大の私学助成はその枠を専門学校と争うようになるのではないでしょうか。となると、学生数の確保は生死を分けることにもなりかねず、「専門学校と比較して選んでもらえる大学」とは何か、ということになるわけです。
いわゆる超上位校の一部以外は、おのずと実学型の「生きる力」を学生に注入することになろうかと思います。あの大学に行くと食える、という確証があるからこそ、医学部や薬学部、看護学部に人は集まっているのです。


・高等教育は18歳で学ばならないわけではない
また、アカデミズムのある先生はリベラルアーツの土台の上に立たない実学などろくでもない「カス」である、という趣旨のこともおっしゃっています。しかし、大切なのはまず、「食える」ということです。食えていれば、その上に学修を積み、教養を高めることが可能です。べつに実務の先に教養があってもいいのではないでしょうか。そして、そういうニーズは多々あります。なぜなら、放送大学には9万人もの学生が所属し、その多くが社会人で、教養を高める努力をしている、この事例ひとつとっても社会人の教養、しかも高等教育としての教養のニーズがあることが理解できるからです。一部の雲の上のエリートを除けば18歳で学ぶ教養と28歳で学ぶ教養にさしたる差はないでしょう(教養を身につけると、その社会人の実務にも厚みが出てきます。市役所にも「法律に書いてないから駄目です」と言う担当者と「法の趣旨からいうとそれはこれこれこう違うのではないでしょうか」と言う担当者がいます。その差はある種の教養から来ます)。
よくよく考えると、社会人の継続的な学びにも会議は言及していますね。つまり、18歳から22歳の間に教養と専門を注入する、という定型的な学びのスタイルでないありかたはないのか、そういうものを模索してはどうか、というのがこのたびの提言であるように思います。


・アメリカのコミュニティカレッジにはおじさんおばさんがうじゃうじゃいる
一つのモデルになっているのはアメリカ型の学びなのではないかと思います。アメリカでは一部のエリートは学部を出てそのまま修士に進み、ストレートで、あるいは20代半ばで本格的に産業界に進みます。
その他の学生は高校を出てすぐ働くか、あるいは地域のカレッジなどから就職し、何年かしたら大学や大学院に進学し、社会と大学やカレッジを行ったり来たりします。

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(和光市の姉妹都市ロングビューのコミュニティカレッジにて。溶接の職業訓練をやっているところ。学生の年代はさまざま。)


もちろん、そのスタイルはだんだんと破たんしつつあり、高額な学費と教育ローンの問題がクローズアップされていますが、社会に出てからも継続的に教養を高めるというスタイルは「有り」ですね。

そういうわけで、何らかの形で食える学生を社会に送り出すことが大前提、その条件下で大学や専門学校がどう若者の教育を組み立てるか、また、社会人経験のある学生に満足してもらえる学部教育を、修士課程をどう組み立てるか、ということがこれからの大学には問われるように思えてなりません。
提言を「ほれ御用学者だ」「教養のない人間が書いている」とせせら笑うのは勝手ですが、提言はある程度は政権の思いを踏まえつつ、大学の生きる道を会議のメンバーなりに考えた結果なのではないでしょうか。


・富山和彦氏は「まず、食べていけるようにしようよ」と言っている
冨山和彦さんの講演を聞き、また、そのあとしばしお話をさせていただきましたが、彼の問題意識は地方の人手不足をどう解消するか、地方の産業の生産性をどうあげるか、地方で食える道はどのようなものか、というものだということがよくわかりました。
ちなみに、地方で食える学生を社会に送る地方大学、というビジネスモデルができれば、その大学は生き残れます(研究大学もリベラルアーツ大学も、大学のビジネスモデルの一種にすぎません。また、ハーバードやスタンフォードのビジネススクールは最も成功したビジネスモデルですが、学内ではいい印象を持たれていないようですね)。
また、この提言の座長は早稲田の鎌田総長ですが、そもそも早稲田は東京専門学校、実学の府です。鎌田さんは民法学者です。実学の先生です。法律家は専門プロフェッションとしては医師に次いで古い実学の職務ですが、医学も法学も実学です。最近、弁護士は怪しいですが、医師と弁護士は実学を背景とした食える仕事です。


・大学なりの実学教育がある
そんなわけで、実学実学と言われても、実学は学問の一種だし、学生に実学以前の能力をつけさせるにしても、大学なりのやり方があるはずです。高校生が学ぶ全商簿記と、L型大学で学ぶ簿記論が、結果的に3級というアウトプットは同じでも、その間に明確な差異がある教育をできれば、それは大学の仕事なんじゃないのかな、と私は思います。

ちなみに、会計学の巨匠、A.C.リトルトンは名著『会計発達史』(同文舘)の序文の末尾で添付画像のようなことを述べています。碩学リトルトンをして、実学差別に随分悩まされたことがこのくだりを書かせたのでしょうね。

リトルトン


・実学は哲学や歴史学、宗教学とつながっている
また、私は仕事柄、なぜか市議会なのに出てくる憲法関係の質問に答弁するために憲法や憲政史、英国法制史を学ぶ(もちろん、学びが直に生きるような深い質問は絶対にありません)のですが、実学である法学というものは実は歴史や宗教、哲学とそれらの変遷に深く結びついていることをいつも感じさせられます。
下記のようなアレントの言葉を引用して今回の話を批判しておられる学者さんに失礼を承知で申しあげたいのは、あなたは本当に実学をご存じか、ということです。

リトルトンがらみで会計に関して言うと、主要な簿記の古典であるパチョーリの「スムマ」をはじめ、多くの簿記書が数学者や物理学者などによって書かれているという事実があるんですよ。

それだけではありません。
この簿記会計に基づいて仕事をしていると(全員ではないですが)、いずれ「なぜこうなっているのか」「この手続きが生まれた社会的な背景は」ということが気になります(税理士さん、会計士さんのブログにはこういうネタが実に多い)。すると、じゃあ簿記の歴史を学ぼうか、となる。そして、地中海貿易から産業革命にいたる経済史に裏付けられた簿記の歴史を学ぶことになります。
いや、もっとさかのぼって、アカウンタビリティの歴史を奴隷の職務遂行の説明責任までたどる人もいる。実学の学びが豊かな西洋史の学びにつながっていきます。
永遠に分離するなら、というアレントの仮定に疑義を呈するぐらいの蛮勇がほしいものです。

『技術知(ノウハウ)という現代的意味での知識と思考とが、永遠に分離してしまうなら、私たちは機械の奴隷というよりは技術知の救いがたき奴隷となり、それがどんなに恐るべきものだったとしても、技術的に可能なあらゆるからくりに翻弄される思考なき被造物となってしまうだろう』(H.アレント)

あえて言わせてください。


実学と実務をなめてもらっちゃ困ります!