初めてこの峠を訪れた時から感じているのは、「峠は越えてこそ」。

 

古道の先にある峠を目指すというのは単なる登山ではない。

峠に立てば終わりなどではなく、その先の目的地への到達点の一つであった筈なのだ。

 

登ってくるまでの景色、疲れetc… 峠に立って感じるのは途中経過における達成感。

だがゴールではなく、まだ下りが残っているのだ!同じ景色を再び見ながら下るのではなく、新たな景色が拡がっているのだ。ワクワクをまだこれから感じる事ができる!

 

それが峠越えなのではないかと。

 

行って戻る「ピストン」より、絶対に越えるべきが峠。

そう思っているのです。

 

もちろん、忙しい現代社会においては、越えた先での交通機関=足の確保や、なにより時間が必要となりますが、この伊那山脈の山塊の際に住む者なら何とかなるはず。地元民ならではの楽しみ方の「峠越え」の魅力を伝え、拡散していきたいとも。

 

前置きが長し。この峠に関しては想いが強いもので…

 

越えた先からすぐに登ってきた伊那谷と遠山谷との違いに気付く。

まず谷の傾斜が急峻である。それは道が何度も折り返しながら下る「九十九折り」になっていることからも判る。

 

かつてこの古道を行き交ったのは人だけでなく荷を背にした馬や牛もいたことから、あまり急な勾配とはできず、一定の勾配を保つために何度も折り返す必要があったのだ。

 

その道は山中とは思えない程に良く整備され、谷側には道を掘った際に出た石が高く積み上げられている。

 


また、植生も峠直下にカラマツの人工林があるなど、飯田側に比べて人為的な改変が見られる。

 

だが、そう多くはない。

様々な樹種が残っていると感じている(写真はツノハシバミの実)

 

また、伊那谷側と比べて多いと感じているのが

 

巨木の存在である。

 

特に大きいという事ではないが、明らかに周囲の木々と比べて大きい木々が生えている。

 


これは木々を伐採する際、あえて伐らず残したものではないかと感じている。

 

もしかすると、こうした木々を神聖視というか、異形のものとして考えた伊那谷側と遠山谷側の民俗の違いが現れているのではないかと。

 

麓と違って高地で寒暖の差も風の強さも厳しい場所にて、長きに渡って根を下ろし息づいてきた木々の下に立つと、抱かれている安心感を感じる。「何かが宿る」といった感覚を得ても不思議ではない。

 

 

だが、こうした大きな木々がここ数年で根元から倒れたり、

 

途中から折れているのを見る。

 

伊那山脈を越える峠のうち、千代峠の遠山谷側でもこうした倒木が増えている気がしている。

 

 

 

急激に進む温暖化により、木々の生育環境が変化したために起こっているのではないかと。

 

長くその空間を占めていた木が倒れる事で、その周囲の光環境が変わり新たな植物の芽生えがある。

こうした場所が沢山ある事が森が豊かであると教わったが、あまりに急ではないかと危惧している。

 

 

何度も左右に向きを変えながら下る道は、よく手入れされている。

 



なお、上村側にも三十三体の観音様が道沿いに祀られているが、その石質や御姿は飯田側の観音様とは異なる。

石質は石灰岩であり、彫りも違う。

それぞれの谷側にて、頼んだ石工が作成したものであろうが、同じ聖観音でも顔や体つきなどのデザインが全く異なる。

 

作成された江戸時代、当然写真なんてなく頼まれた石工も参考とした絵があったのか無かったのか解らないが、この違いというのが個性を際立たせている。何でも画一的な現在と違うが、それがとてもいい。

 

 

下って行くと、右下斜面にこれまでとは「?」と感じる林相(ヒノキの人工林)が見えてくる。

 

明らかに人為的な手が加わった地形と、

 

明らかに植えられたと判る木々が残る場所がある。

 

もはやその名を留めるのは、資料とこの場所にある看板だけとなった「小川沢」の松田屋さんの跡である。

 

 

 

 

「小川沢」は「おがっさわ」とも呼ばれていた。

この場所は飯田側の上久堅から遠山側へと荷を運んだ場合には、峠での昼食後に休む場として、逆に遠山側の上町からだとお昼前に一休みする場所でもあった。そのため、昭和14年まで松田屋さんという茶屋があった。

 

長く人が住んでいたというのは、この周辺の地形を見ても畑の跡と思われる平坦地があったり、

 

少し下った所に16ものお墓が並んでいたりする事で感じられる。

 

茶屋と共にずっとあったであろう

イチイの巨木の根元には

 

片頬を付かれた如意輪観音様が祀られていた。

番号が刻まれていたようだったが、急いでいたために読み取らず。

次に越えていくときには、じっくりと調べたい。

 

急ぐ旅ではないハズだったが、

和田宿までの距離からしても遅れているのは明らかだったので、歩みを速めていた。

 

それでも普段の里山歩きではなかなか見られない木々の姿に、足を止めて見上げる。

(写真はミズナラの巨木にできたおおきなコブ)

 

また、落ちている葉についた謎の物体(菌類?)に

 

 

 

 

様々な形のキノコが気になる(苦笑)

焦りもありつつ、もっとゆっくり堪能したい気持ちも占める。

 

この観音様は立札があって

 

二十七番観音様だと解る。

 

続く

 

二十六番観音様は

 

苔むしたお地蔵様と

 

並んでおられた。

 

松田屋さんの茶屋跡を過ぎてから

道は少しなだらかになり、斜面を横切りつつ

 

尾根を目指しては再び斜面に沿って下る形へと変わる。

 

二十五番観音様。

陽当りのせいなのか、石材の違いなのか判らないが、遠山側の観音様には苔を多く纏われたものが多い。

 

この二十四番観音様もしかり

 

表面は苔ではないが、白っぽい地衣類のようなものに覆われていた。

 

こうした違いを生んでいるのも

均一でない光環境をもたらしている木々や、その下の土壌(岩盤)など様々な要因なのだろう。

 

そうした違いの中で、この山中に道を拓き、維持する… とても大変な事であったであろうなと。

 

 

二十三番観音(聖観音)様の立札は破損していたが、表面に刻まれた番号は読み取れた。

 

なおこの場所には

長く設置されたままの金属製の檻が残る。

ここまで麓から担ぎ上げた猟友会(?)の方々の苦労を思う。

 

なお、すぐ近くに

キノコが環状に生える「フェアリーリング」(妖精の輪)

 

専門用語だと「菌輪(きんりん)」と呼ばれます。

ヨーロッパでは先述した妖精の輪と呼ばれ、妖精の世界への入り口であり、別の場所や過去・未来へ行き来できる扉であるとも。

 

森には不思議が溢れている。

 

尾根を横切る石の上に設置された

 

二十二番観音様。

今写真で見ると、同一と思っていた遠山側の観音様が大きく分けて2つのデザイン(もしかすると3つ)があるような気がしてきた。

やはり、三十三体全てを一人の石工で彫るというのは大変であり、仲間などと手分けしたのかもしれない。

 

大きく育つトチノキもあるが、

 

途中で倒れてしまう木々もある(ミズナラ)

 

露出した地盤を見れば、表土は薄く、風化した岩の隙間に根が入り込んで育っていた事が判る。

森林の土壌というのはそれこそ数百年とかそれ以上の年月をかけないと作られないのだ。

こうして倒れた木々も、ゆっくりと様々な生物達によって分解され、最後は森の土へと変わっていく。

 

気の遠くなるような時間の流れだが、我々ニンゲンの時間の観点とは違うのだ。

 

少し広くなった場所があり

 

そこには

二十一番観音様と

 

横に墓石。

 

先に炭窯の跡があり

 

もしかすると、定住しながら炭焼きをしていたのかもしれない。

 

炭焼窯の跡からは尾根に向かって少し登る。

下りが多かった道において、久々に体感する登りは足に効く。

 

だが、この先の道が

尾根沿いゆっくり下る歩くのに気持ちのよい場所となる

 

 

巨大な

 

洞のある樹に

 

この辺りでは希少な「ヤドリギ」も高い梢に見る事ができる。

 

尾根の上だけに地盤も安定していて歩きやすい。

また、左右の植生(林相)の違いも一目瞭然のガイドするにはもってこいの区間。

 

下りながら見て、右が植えられたカラマツ。

 

 

左の斜面に広葉樹の木々が拡がる。

 

ここは財産区らしく、残したい木々を選んで施業する「除伐」が行われていた。

 

十九番観音様のすぐ下にも

 

 

ここに多い広葉樹を炭に焼いていた炭窯の跡が残る。

 

十八番観音様は遠山側の観音様の中では珍しい、千手観音様。

 

そしてその先に広がる森は

まだ若く、伐られた後で萌芽したものと思われた。

伐られたのは、キノコの榾木(ほだぎ)としてだろうか?

 

その先の

十七番観音様は、あきらかにこれまでの観音様とはお顔の表情が違う。

ちょっと険しいというか、クールというか…

それに体つきもほっそりされているような。

なんだか美人。

 

 

この先で、少し異変に気付く

先が明るくなってきたなと

 

思いきや

 

道が消えた…

 

何て事だ…

 

尾根沿いに下ってきていた古道が

 

林業の作業道の開削によって消えている。

もちろん歩かれるように道かたちは造られているが…

 

土質にあった安定勾配ではなく、崩れている箇所もある。

 

・・・・・・

 

林業に関する部署にて業務をしていた事もあって、こうした道が間伐した樹木を有効に使う(搬出する)ために必要だという事は十分に解っている。

解っているけれど、この造りは無いだろう…

 

降りていくと、林道伊藤線へと合流する。

 

かつてここにも茶屋の跡があり

看板も建てられていたのだが、

 

押ノ田の茶屋跡を示す看板はこの状態。

 

続く