正月2日。

午前中はまったり。

 

ようやく陽が当たり暖かくなってきた午後、自宅上の保寿寺からスタート。

 

昔使われていた歩く道を辿って、自宅東側に広がる里山へ

 

龍江は中山間地ゆえに、こうした耕作地も平坦地ではなく、山中の谷あいにも拓かれています。

 

だが、このように耕作放棄され木々が生い茂る場所も増えた。

ここは柿畑だったが放棄されて長い。伸びた徒長枝の長さがそれを物語る。

 

ヒノキが植えられた人工林もあるが、林床には常緑の照葉樹が目立つ。

 

主にはこの「アラカシ」。他には「チャノキ」など。

アラカシが元々生えていたのを伐って、ヒノキの人工林に替えたのかもしれない。

常緑の照葉樹は耐陰性といって日陰でも育つ特徴がある。

この事からアラカシは伐られても、散布していたどんぐりから芽生え、上層となったヒノキが伐られるのをじっと待っているのかもしれない。

 

歩く道は

途中いたる所で車道で分断されている。

 

残った道も、ほとんど人が通ることは無くなり木が生えたりしているものの、

比較的 道形は残っている。

 

道の周囲には広葉樹のアベマキやコナラ、クヌギなど、萌芽能力に優れ、薪や炭として利用していた木々が残る。

 

 

だがモウソウチクが侵入している場所も多い。

 

 

ここは元々はアカマツの林であったところに、広葉樹、モウソウチクが侵入してきている。

 

かと思えば

ヒノキが植えられていたり

 

広葉樹がばかりの場所も。

 

細かく分かれた所有者の意思が垣間見える樹種構成となっている。

 

また陽当りの良い尾根沿いの場所は、龍江の基幹産業である果樹栽培がおこなわれている果樹園にもなっている。

 

 

この時期に何故昔の道を辿っているのか?

 

地元龍江の里山を知るには、ただ歩き廻るのではなく

かつて歩く生活であった頃の道を行く事で、里山の利用や先人達の暮らしが見えてくる。

 

これらの道の多くは車道になったり、こうして無くなろうとしている場所が多い。

だが冬であれば木々に葉は無く、見えにくい道の痕跡が判りやすいうえに、蜂や蚊などの虫もいなくて快適。

 

で、早速新たな発見

 

道の跡らしき窪地の上に…

人の手が加えられたと思われる石を発見!

明らかに山中にある自然石ではない。

丸くなった川原石であり、人が運んで来たものと推察し…

 

表面を見ると どちらにも

 

刻まれた文字!

特に2つ目は「道祖神」と読める!!

 

やはりこの左側に元々の道はあったのだ!

 

道の位置が特定できて少々興奮しつつ

付いた目的地

「上の城」の城跡へ。

 

飯田市の遺跡分布図には「城山」とも記されている場所。

この辺りに城跡があるというのは、知っていたが確実な情報を得たのは最近。

気になっていたので今回探訪

天竜川に向かって西側が傾斜地になっている。

 

郭の周囲を斜面に沿って歩いてみる。

天然の掘のようになった地形であり、守るに容易いといえる。

 

 

 

北側には後に付けられたものか

 

そうでないのか解らないが、歩かれる小段が上部の郭に向かって続いていた。

 

そして本郭の下に存在していた出丸のような場所。

 

明らかに防御施設のように見える

僅かだが石積みもある(畑の跡の可能性も)

 

また、入れ違いとなった土塁のような存在は

 

「虎口」を思わせる。

 

東の突端沿いには

 

東側の尾根とを区切る堀と思われる窪地が続く。

畑として造成されたために失われているが、南北に堀もしくは土塁があったのではなかろうか?

 

城の決めてとなる施設は少ないが、明らかに何らかの意図を持って地形が改変された場所であるのは間違いない。

 

龍江の天竜川沿いから、戦国時代にこの周辺を支配していた知久氏の神之峰に至るにはこの道も通っていたのも間違いない。

尾根の突端にあり、天竜川から神之峰へと向かう道を押さえるにはうってつけの場所であったと思われる。

 

この日はここまでの調査であったが、次回は飯田市立図書館の郷土資料を基に詳細に調べてみたい。

 

保寿寺もしくは東照寺をスタート

出来るだけ昔の歩いた道を用いて里山を巡り、この「上の城」城跡、「兎城」跡を経て戻る龍江の里山探訪ルートを確立し、春に案内をしたいと考えている